2026年4月12日日曜日

「土の器ではあるけれど」 

2026年4月12日 主日礼拝説教 

コリントの信徒への手紙二 4:7-16

土の器の中に
 今日の第二朗読では、コリントの教会に宛てたパウロの手紙をお読みしました。そこで彼はこう言っています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(2コリント4:7)。

 「土の器」という表現は、ある意味ではたいへん分かりやすい。私たちは確かに「土の器」です。土の器の特徴は弱さであり脆さです。壊れやすい。最終的には、必ず壊れてしまう。そのような意味において、私たちは土の器です。どんなに強がって見せても土の器に過ぎません。いや、私たちは土の器に過ぎないことを知っているからこそ、強がるのかもしれません。土の器であることは怖いから。土の器であることを認めることは恐ろしいことだから。

 しかし、パウロは自分が土の器であることを認めた上で、まことに驚くべきことを宣言するのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8‐9節)。

 私たちが、自分を土の器だと実感するのは、苦難の中に置かれた時でしょう。すべてが順調に進んでいるとき、自分の弱さは問題とはなりません。しかし、苦難においては脆さが問題となります。四方から苦しめられるときには弱さが大きな問題となります。しかし、パウロが言っていることは、要するに「土の器であっても大丈夫」ということです。

 決定的に重要なことは別にあります。パウロはこう言っているのです。「《このような宝を》土の器に納めています」と。重要なのは、中に何を納めているのか、ということなのです。こわれてしまうような土の器で良いのです。その中に宝を持つことです。

 パウロが言っている「このような宝」とは何でしょうか。実は、今日の朗読箇所の直前にそのことが書かれているのです。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(6節)。――これが宝です。

 神は信仰という光を与えてくださいました。十字架にかかられたイエス・キリストを、栄光に満ちた神の子、救い主として示してくださり、イエス・キリストを信じる者としてくださったのです。「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださった」とは、そういうことです。

 いや、ここに書かれているのは、さらにそれ以上のことです。「わたしたちの心の内に輝いて」と書かれていますでしょう。主語は誰ですか。神様御自身です。なんと神御自身が私たちの心の内に光となって輝いて照らしてくださったと書かれているのです。――これ以上の宝があるでしょうか。

 イエス・キリストの福音は、単なる一つの思想ではありません。私たちに与えられた信仰は、単なる「心の持ちよう」などではありません。それは一つの出来事です。それは実に神御自身が来られて自ら輝いて光となって私たちの心の暗闇を照らしてくださるという出来事なのです。単なる一つの思想を、パウロは「宝」などとは呼ばないでしょう。それは神の圧倒的な恵みによる御業であり出来事であり事実であるゆえに、それは宝なのです。いかなるものにもまさる宝なのです。もし私たちがそれほどに思っていないとするならば、それは与えられているものの真価が分かっていないということなのです。

 私たちは確かに土の器かもしれない。しかし、宝を内に納めた土の器として生きることができるのです。そこにこそ救いがあるのです。この宝が私たち自身とこの世を救うのです。私たちは、自分で自分を救うことができません。私たちは、私たち自身の力で、この世界を救うことはできません。私たちは皆、土の器なのですから。この世界そのものが土の器なのですから。救いは神から来るのです。神からの宝こそが私たち自身とこの世界を救うのです。

 救いが神から来るものであるならば、私たち自身が土の器であることは、まったく問題ではありません。土の器であるからこそ、神の与えてくださった宝の真価が表れるからです。

 実際、これを言っているパウロ自身、「土の器」であることの一つの現われとして、何かしらの病気を負っていたようです。彼はそれを身に与えられた「一つのとげ」と表現しています。それが何かは分かりません。しかし、それは恐らくパウロの伝道の働きにも支障をきたすようなものだったのでしょう。だからパウロはこのとげが取り除かれるように祈り求めたのです。そのことが、この手紙の12章に書かれています。

 しかし、主はそのとげを取り去ることはありませんでした。主はパウロにこう言われたのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12:9)。これがパウロの得た答えでした。それゆえにさらにパウロはこう語るのです。「だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(12:9‐10)。

 そのようなパウロであるからこそ、今日の聖書箇所においても、確信をもってこう言っていたのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と。土の器であっても大丈夫。それがパウロの確信だったのです。

イエスの命が現われるために
 さらに、パウロは10節以下においてこう続けます。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現われるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現われるために」(10‐11節)。土の器であることについて、パウロはさらにこれを「いつもイエスの死を体にまとっている」と表現しています。今日はさらに残された時間、この「死を体にまとう」という不思議な表現について、しばらく一緒に考えてみたいと思います。

 細かい話になりますが、ここで用いられている「死」という言葉は、「死」そのものを表現するために通常用いられる言葉ではありません。あえて言葉を加えるならば、それは「死につつある人の状態」を表す言葉です。「死」そのものというよりも、「死んでいくプロセス」と言っても良いでしょう。

 人間が死んでいくプロセスは、ある意味では生まれたときから始まっていると言えます。土の器であるとはそういうことでしょう。その意味で、人は誰でも「生まれながらに死を体にまとっている」と言えるのです。ですからその事実が様々な形で現れます。例えば病気という形で現れます。人生の途上で体の機能の一部を失うということもあるでしょう。次第に衰えていくということも起こります。死を体にまとっているのですから当然です。そこには誰一人例外はありません。

 もちろんキリスト者も例外ではありません。クリスチャンになったら病気にはならないか。苦しんだり災いに遭ったりすることはないか。信仰者は死なないか。そんなことはないでしょう。いやむしろ、パウロや当時のキリスト者のように、迫害によって「死を体にまとっている」という事実が表に現れることもあります。信仰のゆえに殉教して死ぬ者もいたのですから。

 しかし、土の器に宝を持つならば、イエス・キリストを信じる信仰があるならば、決定的に異なることがあるのです。それはいかなる苦しみも、もはや決して孤独に一人で背負うことはない、ということです。そこで味わっているのは自分の苦しみであり、自分の死であるはずなのに、「イエスの死を体にまとっている」と語られているのです。私たちは苦しみにおいて、イエス様と一つになるのです。

 これはイエス様の側から言うならば、「あなたは一人で苦しんでいるのではない」ということです。「あなたは《わたしの死を》体にまとっているのだ。苦しんでいるあなたの身において、わたしとあなたは一つだ」。――イエス様がそう言ってくださっているということです。

 そして、私たちは知っているのです。十字架にかかって苦しんで死んでいったイエス様は復活なさったと。十字架の向こうに復活があった。ならば、私たちが十字架にかかったイエス様と一つになるならば、復活したイエス様とも一つになるのです。「イエスの死を体にまとう」なら、イエスの命もまた体に現われるのです。「いつもイエスの死を体にまとっているのは、イエスの命がこの体に現われるためなのだ」とパウロは言うのです。

 実際、私たちがしばしば目にするのは、様々な苦難中にあってなお、苦難の中にあるからこそ、イエス様の命に輝いている信仰者の姿です。病気の床にある人において、迫害の中に置かれている人において、無駄な労苦に何年も人生を費やしているように見える人において、確かに、「イエスの命がこの体に現われる」ということが起こっているのを、私たちはしばしば目の当たりにするのです。イエスの死を身に負う時、イエスの命も現われる。それは真実です。

 そして、私たちがイエスの死を完全に身に負ったとき、負い抜いたとき、そのようにして私たちが地上の人生を全うした時、そして土の器が土に帰る時、イエス様の命もまた完全に現われるのです。十字架で死んだイエス様が復活して永遠の命に輝いたように、私たちもやがて神の国に復活して永遠の命に輝き、神の御前に立たせていただけるのです。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(4:14)とパウロは言います。これこそ、私たち土の器に与えられている究極の希望なのです。


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