2023年3月26日日曜日

「捨てられた石はそのままで終わらない」

ルカによる福音書 20:9-19

力を行使できる神

 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」(9節)とイエス様は語り始めました。この話はある意味で彼らに身近な話でした。彼らはぶどう園を生活圏内にいくらでも目にすることができたでしょうし、オーナーが遠くに住んでいて農夫たちに管理が任されているぶどう園は決して珍しいものではなかったでしょうから。

 話は次のように続きます。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」(10節)。今日の私たちの感覚からするとあり得ないような話に思えますが、治安維持のシステムが確立されていない社会においては、いくらでも起こりえることでしょう。そこではただ力関係だけがモノを言うわけですから。

 主人がある程度の力を持っていれば問題は起こらないのです。しかし、農夫の集団の方が強ければ、このようなことは起こり得ます。遣わされた僕は、主人が力を持っていてこそ、ぶどう園の収穫を回収することができるのです。主人が侮られるならば、その僕も袋だたきにされて追い返されます。

 さらに話は続きます。「そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した」(11‐12節)。こういう展開になりますと、力関係ははっきり見えてきます。明らかに農夫集団の方が強いのです。主人は僕を送り続けますが、事態は何も変わりません。

 そこで主人はある決断をします。「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』」(13節)。これが賢い決断であったかどうかは別としまして、主人が農夫よりも弱くて、力による解決ができないなら、これも交渉のための選択肢として考えられなくもありません。

 しかし、そこに主人の無力さを見た農夫集団はぶどう園を一気に自分たちのものにしようと目論みます。「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」(14‐15節)。当時の社会において、農園の持ち主が跡取りのないまま死んだ場合には、その農園が農夫のものになるということは実際にあったようです。

 いずれにせよ、このような話は誰が聞いても不快なものです。力ある者たちの暴力によって正義がねじ曲げられ、正しくない者が得をして勝ち誇る。そんな結末で良いはずがないと誰もが思います。この悪い農夫たちをなんとかせねばならない!そこでイエス様は話を続けます。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(15‐16節)。

 なんと!弱いと見えた主人は、実は弱くはなかったという話です。彼は武装集団を配下に持っていたのです。そして、悪い農夫たちは成敗されました。このような話が好まれるのは古今東西変わりません。「水戸黄門」に出てくる悪代官も最後には必ず成敗されることになっているのです。そうでなければ、収まりがつかない。イエス様の話を聞いていた人たちにも、恐らくたとえ話の結論は見えていたはずです。悪い農夫は滅ぼされることになる。ですから「そんなことがあってはなりません」という聴衆の言葉は、農夫たちが成敗されたことを言っているのではありません。

 人々はこのたとえ話を、「主人は侮られたままではない」という話として聞いているのです。主人は力を行使することができる。そして、彼らはこれが神についての「たとえ話」だということも分かっていたはずです。なぜなら、旧約聖書において、ぶどう園の主人に喩えられているのは主なる神だからです。神は侮られる御方ではない。全能の力を行使することのできる神である。実際、彼らは主をそのような神として信じているのです。

 だからこそ、彼らは律法を守ることを大切にしていたのです。神が怒りをもって力を行使するような事態を引き起こしてはならないと思っていたからです。この主人が神であるならば、このたとえ話のようなことは起こってはならないのです。だから彼らは言ったのです。「そんなことがあってはなりません!」

力をあえて行使しない神
 しかし、「そんなことがあってはなりません」と言う彼らをイエス様は見つめて、こう言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』」(17節)。これは詩編118編3節の引用です。イエス様は問われます。それは何を意味するのか。イエス様の問いは、このたとえ話を前提としています。その問いに答えるためには、先のたとえ話をもう一度思い巡らす必要があります。

 実はあの主人は弱くなどなかった。主人は侮られたままではないという結論。そこからこの「たとえ話」をもう一度読み返してみますと、このストーリーはそもそもあり得ない話であることが見えてきます。

 「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」。この時点で農夫たちは既に反乱を起こしているのです。そして、主人は武力をもって反乱を鎮圧することができるのです。にもかかわらず彼はほかの僕を送るのです。その僕が袋だたきにされれば、三人目を送ります。

 それはこの世においては起こりえないことです。しかし、これが神のなさってきたことだとイエス様は言われるのです。滅ぼす力を持ちながら、それでもなお力を行使せずに僕を送るのです。馬鹿にされようが、侮られようが、見くびられようが、それでもなお忍耐強く呼びかけ続けるのです。そして、実際にイスラエルの歴史において神は預言者を送り続けたのです。

 しかし、イエス様の話はそこに留まりません。主人は言うのです。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」。直ちに滅ぼすことのできる力を持っているとするならば、この主人の行動はあり得ません。この主人の行動は常軌を逸しています。これほど愚かな行動はありません。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」――息子だからと言って敬うはずはないではありませんか。

 にもかかわらず、主人は息子を送るのです。もはや結末を知りながらあえて送ったとしか言いようがありません。息子がぶどう園の外に放り出されて殺されるかも知れないことを承知の上で送ったとしか言いようがない。そうです、イエス様はそのように送られた息子としてこの「たとえ話」を語っておられるのです。「これがわたしを遣わした父なる神だ」と。

 そうです、イエス様は分かっておられるのです。御自分がこの息子のように、外に放り出されて殺されること。間もなくしてエルサレムの外で、十字架につけられて殺されること。――分かっているのです。御自分が詩編に歌われている「家を建てる者の捨てた石」となることも分かっているのです。

 しかし、捨てられた石はそのままでは終わらないのです。詩編は「これが隅の親石となった」と続くのです。イエス様が心の目で見ておられるのは、御自分が捨てられるところまでではありません。その先を見ておられたのです。独り子さえこの世に送られた神の忍耐と寛容は、十字架によって無に帰してしまうのではありません。むしろ、そこから新しいことが始まるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」そう書かれていることが実現するのだ、と主は言われるのです。

 そして、そのとおりになったと聖書は私たちに教えているのです。キリストを隅の親石とした新しい家が建てられました。それが教会です。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストは、無に帰したのではなく、私たちの罪を贖う犠牲となりました。キリストは復活して隅の親石となられました。そこからイエス・キリストが宣べ伝えられ、罪の赦しの福音が宣べ伝えられるようになりました。ですから、これを書いているルカは、第2巻をも書くのです。「使徒言行録」――教会の物語です。

 主は言われました。「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(18節)。これは単なる裁きの言葉ではありません。その向こうに救いが見えているのです。

 教会の宣教によって、人はキリストに出会います。十字架にかけられて復活されたキリストに出会うのです。隅の親石となったキリストに出会うことになるのです。そして、キリストとの出会いの中で、自分こそまさにあの農夫たちの一人であることが見えてくる。神を侮って生きてきた自分自身であること、神の忍耐も寛容も軽んじて生きて来た、自分の罪深さを知ることになるのです。

 そのようにして、ある人はキリストという石の上に落ちる。ある人はキリストという石の下敷きとなる。砕かれたり押しつぶされたりすることになるのです。しかし、そこにこそ人間の救いがある。神を侮ったままで人が救われることは決してないからです。

 これを書いているルカは、そのように砕かれ押しつぶされ、そして救われた人を、少なくとも一人、身近に知っています。ルカが宣教の旅を共にしたパウロです。隅の親石なるキリストとの出会いは、パウロの救いでした。そして、私たちの救いもそこにあるのです。

 このように、このたとえ話は、神は侮られる方でないこと、最終的な裁きを行う力をお持ちの御方であることを語っています。しかし、それだけではありません。その神が限りない忍耐と寛容を示していてくださること、今も私たちに呼びかけてくださっていること、そして、その神が私たちの救いのためにキリストという隅の親石をしっかりと据えてくださったことを指し示しているのです。
(祈り)

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