2023年1月8日日曜日

「洗礼を受けられたキリスト」

ルカによる福音書 3:15‐22

正しい審きを行われる方は来られる
 「民衆はメシアを待ち望んでいた」と書かれていました。「メシア」とはもともと「油注がれた者」という意味です。その昔、王様が任職される時には、油が注がれたものでした。ですから「油注がれた者」と言えば第一には「王」です。人々が救い主として待ち望んでいたのはかつてのダビデのような力ある王でした。そして、正しい審きを行ってくれる王でした。

 力ある王を待ち望んでいたのは、彼らがこの世の支配に対して無力だったからです。ユダヤ人からすれば異教徒であるローマの皇帝に支配されていたからです。それゆえに、メシアがローマ皇帝の支配を打ち破り、彼らを異教徒の支配から解放してくれるのを待ち望んでいたのです。メシアがダビデの王座を回復し、イスラエルの王国を再建してくれるのを待ち望んでいたのです。

 また、彼らが正しい審きを行ってくれる王を待ち望んでいたのは、現実に行われている裁きが正しくなかったからです。正義が実現していなかったからです。神の律法に反することがまかり通っていたからです。不義なる力によって彼らは抑圧され、苦しめられていたからです。だから、メシアが現れて正しい審きを行い、正義を回復してくださることを待ち望んでいたのです。

 そのような民衆は、荒れ野に現れて説教していた洗礼者ヨハネについて、「もしかしたら彼がメシアではないか」と思っていました。なぜなら、ヨハネは正しいことを語っていたからです。神の裁きについて力強く語っていたからです。

 ヨハネの言葉には確かに力がありました。その言葉を聞いた時に、ローマの兵士たちでさえ「このわたしたちはどうすればよいのですか」(14節)と尋ねたほどでした。ですから、このヨハネが正義を語るだけでなく、正義を実現してくれるメシアであると民衆が考えたのは当然の成り行きでした。

 しかし、ヨハネは民衆の期待を真っ向から否定してこう言ったのです。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(16節)。要するに、私はメシアではない、ということです。もっと優れた方が来られる。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。

 それは何を意味するのでしょう。「聖霊」という言葉は「聖なる風」という意味にもなります。「聖なる風と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。恐らくヨハネがもともと言いたかったのは、「その方は、正しい裁きを行ってくださる」ということです。だからその後に脱穀場の話が出てくるのです。

 農夫は風が吹いているところで箕の中にある麦を放り上げます。すると殻とか藁屑は風に吹かれて飛ばされるので、麦粒が箕の中に残るのです。そのようにメシアは正しい審きを行って、正しい者と正しくない者とを振り分けられる。聖なる風が吹いて麦と殻とを分けるのだ。そして、麦は倉に入れられる。すなわち救いに入れられる。殻は消えることのない火で焼き払われる、すなわち永遠の刑罰を受けることになる。そのようなメシアが来られるとヨハネは語ったのです。

悔い改めなさい
 しかし、ここで大事なポイントは、メシアがローマ人という麦だけを脱穀するのではない、ということです。異教徒麦だけを脱穀するのではないのです。「脱穀場を隅々まできれいにし」というのですから、全部脱穀するのです。異邦人だろうがユダヤ人だろうが、信仰者だろうが不信心な者だろうが、全部脱穀するのです。言い換えるならば、神の前ではすべての人間が平等に問われるということです。だからヨハネは救いを待ち望んでいたユダヤ人たちに対しても、「悔い改めよ」と言ったのです。「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすな、と。

 「悔い改め」とは、方向転換をすることです。それまでの生き方を方向転換して、神に立ち帰ることです。当たり前の話ですが、方向転換は方向が間違っていることを認めない限りできません。苦しみを負った民衆が、ただ現実を嘆き、誰かを呪っているだけならば、人生の方向を変えようとはしないでしょう。誰かが悪いためにこのような苦しみを負っているのだ、と考える人は、方向転換をしようとはしないのです。

 そうです、当時の人々に限りません。いつの時代であっても、今日でも、悪を自分の外にしか見ていない人は、方向転換することもありません。世の中が悪い、社会が悪い、時代が悪い、環境が悪い、親が悪い、夫が悪い、妻が悪いなどと言っている限り、生きる方向はいつまで経っても変わらないのです。

 しかし、そうではない人々がいたのです。他のところに悪を見ていた人が、ヨハネの言葉を聞いて、自分の内にある悪に気付いたのです。他の誰かではなく、そもそも自分の生き方そのものが問題なのではないか、そもそも神との関係が正しくないのではないか、ということに気付いた人々がいたのです。自分こそ赦しを必要としている罪人ではないか、と気付いた人々がいたのです。

 そして、そのような人たちは、プライドもしがらみもかなぐり捨てて、ヨハネのもとに来て洗礼を受け、水の中に沈んだのです。私を赦してください。これまでの私を葬ってください。新しく生きたいのです。そのような切なる願いをもって水に沈んだのです。それがヨハネの宣べ伝えていた「悔い改めのバプテスマ」(3:3)でありました。

洗礼を受けられたキリスト
 さて、そのような「悔い改めのバプテスマ」をキリストもまた受けられたのだ、と今日の福音書朗読は伝えているのです。しかも当たり前のように、民衆がバプテスマを受けたこととキリストがバプテスマを受けたことを並べているのです。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」(21節)と書かれていましたでしょう。

 これは不思議なことです。キリストはなぜ洗礼を受けたのでしょうか。あのイエスというお方もまた、他の民衆と同様に、自分の内に罪を自覚していたのだ、ということでしょうか。

 いいえ、そうではありません。イエスが洗礼を受けた後、話は次のように続くのです。「天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(21-22節)。

 聖霊は審きの風としてではなく、神の言葉をともなって静かに鳩のようにイエス様の上に降ったのです。そして、その言葉はこう語っていた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これに似た言葉は詩編2編に出て来ます。つまりこれは神の任職による王の即位を意味する言葉なのです。確かにこの御方は来るべき王でありメシアなのだと語られているのです。すなわち、この御方こそ神の心に適う正しい方、この方こそ、正しい審きを行う権威ある方ということです。

 洗礼者ヨハネのメッセージによれば、メシアは「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」、そういう存在のはずでした。神の審判を具現するメシアであるはずでした。そうです。そのメシアは確かに来られたのです。しかし、その御方は箕を持ってはいませんでした。実際には脱穀を開始されませんでした。そうではなくて、罪を裁く権威を持った正しいお方が、なんと!悔い改めて神の赦しを求める罪人と同じ列に並ばれ、同じ水の中に沈まれたというのです。

 それはまさに始まりでした。この福音書を読み進みますときに、やがて私たちはその御方を罪人たちのテーブルに見ることになります。正しい人たちはその様子を見てつぶやきます。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一所にしている」(15:2)と。さらに私たちはイエス様が人々からこうささやかれるのを耳にします。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(19:7)と。

 話はそれで終わりません。最終的に、私たちはどこでキリストを目にするのでしょうか。その方は二人の犯罪人と一緒にゴルゴタの丘に引かれて行きます。「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」(23:32‐33)。

 あの日、罪人と一緒に並ばれ、罪人と同じ水の中に立たれた主は、罪人と同じところにい続けてくださいました。罪を裁く権威をお持ちのお方が、罪の赦しを携えて、共にい続けてくだささいました。いや、それは単に2000年前の過去の話ではありません。主は今もなおそのようなキリストとして共にいてくださっているのです。キリストの体なる教会がこの世に存在し、福音が宣べ伝えられ、今もなおバプテスマが行われ、今もなおキリストの食卓の周りに集められて聖餐が行われているとはそういうことなのです。

 ならば悔い改める罪人は救われます。必ず救われます。そのようなキリストが共にいてくださるならば、必ず救われるのです。その真理を今も指し示しているのが、今日お読みした物語、キリストがバプテスマを受けたというこの物語なのです。

 ヨハネは言いました。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。しかし、罪人と同じ水に沈んでくださったお方が、「聖霊と火で洗礼をお授けになる」と言われるならば、それはもはや、ヨハネが考えていたように、殻を吹き飛ばし焼き払われるという意味ではありません。そうではなくて、キリストは罪を赦されて新しく生き始めた人々を聖なる霊の力に満たしてこの世界に送り出されるのです(使徒1:8)。罪人を救うキリストの体として、キリストの福音を携える者として。

(祈り)

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