ルカによる福音書 14:7-14
お返しができない人を招きなさい
ある安息日にイエス様はファリサイ派の議員に招かれて食事の席に着かれました。そこでイエス様は自分を招いてくれた人にこんな話をなさいました。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(12‐14節)。
招いた人からこんなことを言われたらどうでしょう。少々ムッとしたかもしれません。しかし、彼がファリサイ派の人ならば、イエス様の語っている内容そのものには反発しなかったはずです。ファリサイ派の人たちが大切にし、励んでいる善行の中には「施し」も含まれていたからです。ですから、イエス様の話は多少極端に聞こえたかもしれませんが、貧しい人を招きなさいという教えには心から同意したはずなのです。
さらに言うならば、イエス様の言っておられるのは、要するに「お返しができない人を招きなさい」ということです。言い換えるならば「人からの報いを求めるな」ということです。なぜか。本当の報いは神から来るからです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とはそういうことです。最終的に神の国に入れられるときに、神様が報いてくださる。――それはファリサイ派の人ならば誰だって信じていることなのです。彼らは死んで終わりだとは思っていない人たちです。その点においては同じユダヤ人でもサドカイ派の人たちとは異なります。彼らは神の国を信じています。神の国における報いをも信じているのです。ですから「報いは神の国において」という教えには喜んで同意したはずなのです。
それゆえに、今日の朗読箇所には含まれていませんが、話はこう続くのです。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」(15節)。これを言った人は間違いなくファリサイ派の人です。彼はイエス様の話を聞いて心から同意したのです。そして、神の国における神からの報いを思ってこう言ったのです。
そのように、「お返しができない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という教えは、ある意味ではファリサイ派の人にはとても分かりやすいのです。しかし、イエス様は、ファリサイ派の人も常々口にしているような、単純な「報いを求めない善行の勧め」として、これを語っておられたのでしょうか。
上席を選ぶ様子を見て
ある言葉が語られた場合、その言葉がどのような場面で語られたのか、ということはとても重要です。語られた場面によって、同じ言葉も全く違って聞こえてくることがあるからです。それでは、この場面そのものに目を向けてみましょう。
最初に申しましたように、イエス様はファリサイ派の議員に招かれて食事の席に着かれました。しかし、食事に招かれたのはイエス様だけではなく、他にも招待客がいたようです。そして、イエス様が目にしたのは招待を受けた客が上席を選ぶ様子でした。そこで彼らにこんなたとえ話をなさいました。
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(8‐10節)。
イエス様が言っておられることは、なるほどもっともな話です。そして、それは昔から語られてきたことでもあります。本日の第一朗読でも「高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい」(箴言25:7)と読まれましたでしょう。
にもかかわらずイエス様があえてこの話をなさったのは、これが単なる食事の席の問題に留まらないからです。イエス様はここで「たとえ話」をなさっているのです。ただの食事の話ではありません。「婚宴に招待されたら」という話をしたのです。そのような「婚宴」のたとえ話をしたのは、「婚宴」あるいは「祝宴」が神の国を象徴的に表すものとして、旧約の時代から用いられてきたからです。イエス様は単なる謙遜の勧めをしているのではなく、「神の国」の話をしているのです。
上席を選ぶ彼らの様子。それは単に食事の席だけの話ではありません。それは神の国に対する彼らの態度でもあったのです。彼らが上席を選んでいたのはなぜですか。自分こそ上席にふさわしいと考えていたからでしょう。自分こそ招待されるべき人間だと思っていたからでしょう。そのような思いは神の国についても同じだったのです。自分こそ神の国の上席にふさわしい人間だ、と。自分こそ神の国において報いられるべき人間である、と。実際、招待客の一人は言っていましたでしょう。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。当然、神の国で食事をする人の中に自分は入っているのです。
そのような人たちに、イエス様は「婚宴」のたとえ話をされたのです。神の国の話をされたのです。そして、こう締めくくったのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。
罪人のわたしを憐れんでください
そのように、これは一般的な意味における謙遜の勧めではありません。神の国の話です。「高ぶる者」「へりくだる者」についても、一般的な話ではなく、神との関係における話なのです。
実は、この「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、18章においてほとんど同じ形でもう一度出て来ます。そこに至りますとイエス様の意味していることがより明確に現れてきますので、そこも読んでおきましょう。18章9節以下には次のように書かれています。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」(18:9‐14)。
ここに出て来るファリサイ派の人は、明らかに人と人との比較の世界に生きている人です。それこそ「上席」「末席」の世界に生きているのです。だから自分と比較して徴税人を見下すのです。しかし、この徴税人は違いました。人と比較して自らを語っているのではありません。神の御前において自分を正直に認めて、憐れみを乞うているのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。イエス様が「へりくだる者」と言っているのは、そのような人間の姿です。そのような意味において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主は言われたのです。
神の国への招きとは
そして、最初に見たように、「お返しができない人を招きなさい」という話をなさったのです。なぜ、お返しができない人を招くのか。それは単なる施しの勧めではないのです。単に人から報いを求めなくても神様が報いてくださいますよ、という話でもないのです。
イエス様は神の国の話をしておられるのです。なぜお返しができない人を招くのか。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、お返しができない人たちが招かれた祝宴こそが、神の国を指し示すものとなるからなのです。神の国とはどのようなものなのか。神の招きとはどのようなものなのか。それを指し示す食事となるからなのです。神の国にはお返しができない人が招かれるのです。そうです。神はお返しができない人を招かれるのです。そのことを、上席を取り合っていた招待客たちは知らなくてはならなかったのです。自分たちこそ神の国にふさわしいと思っていたファリサイ派の人たちは知らなくてはならなかったのです。
お返しができない人の招かれた祝宴が何を意味するのか。――それは、あのファリサイ派のところではなく徴税人のところに身を置いてこそはっきりと見えてきます。他の人と自分を比較して、他の人を見下しているところではなく、自ら胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るところに身を置いてこそ見えてくるのです。そこに何が見えてくるでしょう。招かれても全くお返しができない貧しい人、ただただ感謝して御厚意を受け取ることしかできない人。それはまさしく神の御前における私の姿ではないか、ということです。
実際、イエス・キリストによって救われるとは、そういうことでしょう。「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈ることのできない私たちが、そんな私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされ、主の食卓に招かれるのです。それはまさに、お返しができない貧しい人が招かれるということではありませんか。
お返しができないわたしが招かれている神の国の祝宴――それをはっきりと指し示しているのが、この後に行われる聖餐なのです。ここには、お返しできない者を招いてくださる神の恵みが満ちあふれています。お返しできない私たちが、キリストの体と血を受けて、お返しできない私たちが神の完全な赦しと愛とを受け取るのです。
お返しのできない者が祝宴に招かれている!――その感謝からこそ、本当の意味で、報いを求めない愛の業が生まれてくるのです。そこで改めて、「お返しができない人を招きなさい」という主の言葉を改めて受け取ることができるのです。「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という言葉を、本当に幸いな人として、聞くことができるのです。