2023年4月16日日曜日

「復活された主と共に」

ルカによる福音書 24:13-35

 

エマオへと向かう二人の弟子たち
 二人の弟子が、エルサレムから11キロほど離れたエマオという村に向かって歩いていました。もうエルサレムに用はありません。留まる理由もありません。重い心を抱きつつ、彼らはエルサレムを後にしました。

 こんな風にエルサレムを去ることになろうとは、一週間前には夢にも思いませんでした。そう、つい一週間前の日曜日、イエス様は歓呼の声に包まれて、エルサレムに入城されたのです。オリーブ山からエルサレムへと向かう道は、人々の熱狂と興奮で沸き返っていました。人々は自分の服を道に敷いて、ロバに乗ったイエス様を迎えました。夥しい群衆と弟子の群れは、声高らかに神を賛美していました。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」と。

 それはまさに、王の入城でした。偉大なる預言者であり王である御方、イスラエルの待ち望んでいたメシアの入城に他なりませんでした。人々の胸は期待と興奮ではち切れんばかりでした。あの二人もまた、イエスの弟子として、誇らしかったに違いない。「この方こそイスラエルを解放してくださる!」彼らの心は、まさに熱く燃え上がっていたのです。

 つい一週間前のことです。しかし、今や、すべては過ぎ去ってしまいました。興奮が過ぎ去ってしまえば、残るのは虚しさだけです。《あれはいったい何だったのだろう。燃え上がったあの炎は、いったい何だったのだろう》。いずれにせよ、もうそれはどうでも良いことでした。イエスは殺されてしまいました。すべては過ぎ去りました。もはやエルサレムに留まる理由もありません。重い心を抱きつつ、彼らはエルサレムを後にしたのです。

 彼らは「この一切の出来事」について話し合っていました。それはあまりにも辛く悲しい、またあまりにも悔しいできごとでした。しかし、その痛みを分かち合うことのできる仲間はいたのです。このような時に語り合える誰かが一緒にいるということは、それだけでも有り難いことです。

 しかし、ただ人と人とが語り合っているだけならば、先は見えているとも言えます。「二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」その先にどういう話が続き得るか、私たちにも分かります。「そうこうするうちに、村に着いた。彼らは悲しみながらも、元の生活に戻っていきました」。――これで終わりです。それだけの話です。

 ところが、今日お読みした話はそのような展開にはなっていません。まったく別の方向に進んでいきました。どうしてか。もう一人加わったからです。そこにこそ、私たちが今日教会において、この話を読んでいる意味があるのです。

共に歩んでくださるキリスト
 15節を御覧ください。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(15節)。イエス様が静かに近づいて来られました。そして、彼らと共に歩まれました。二人の弟子たちは、その御方が復活されたキリストであることに気づきません。なぜでしょうか。ただ「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とだけ説明されています。

 彼らは気づかなかった。知らなかった。しかし、既にキリストは共に歩んでくださっていました。そして、既に主は共にいて、彼らに働きかけておられたのです。そして、主は尋ねられました。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。彼らは暗い顔をして立ち止まりました。クレオパが答えます。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。

 イエス様が「どんなことですか」と問われますと、彼は語り始めました。その御方は力ある預言者であったこと。彼らは「あの方こそイスラエルを解放してくださる」と望みをかけていたこと。しかし、おの方は十字架につけられ殺されてしまったこと。しかも、その遺体が無くなってしまったこと。暗い顔をして立ち止まった彼らは、これらのことを語りました。

 イエス様はそれを聞いてどうされたでしょう。暗い顔をしていた彼らを慰めてくださったのでしょうか。いいえ、イエス様はこう言われたのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(25‐26節)。

 イエス様は彼らの不信仰を嘆かれます。しかし、それだけではありませんでした。彼らが信じられるように、語り始められるのです。こう書かれています。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)。聖書を解き明かしてくださった。聖書が分かるようにしてくださった。これがイエス様のされたことでした。一緒に歩いてくださっているイエス様がしてくださったことでした。

 やがて、彼らは目指す村に近づきました。二人はなおも先へ行こうとされるイエスを引き止めて言います。「一緒にお泊まりください」。そこでイエス様は共に泊まるため家に入られました。そして、次のように書かれています。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)。この言葉で何を思い出しますか。最後の晩餐でしょう。丁度、あの最後の晩餐で起こったことが、その小さなテーブルにおいても起こりました。すると、突然、二人の目が開けたのです。

 「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)と書かれている。この描写は面白いと思います。目が開け、「見えるようになった」のではないのです。その姿は見えなくなった。私たちが今、復活したキリストの姿が見えないように、彼らにもイエス様は見えなくなりました。しかし、それで良かったのです。もっと重要なことがあるからです。ここまでイエス様が共に歩んでくださっていたのだ、という事実に気づいたということです。彼らが気づく前から主が共にいてくださった。そのことに気づいた。目が開かれて「見えた」のはそのことでした。

 そして、彼らはもう一つのことに気づきます。死んでいたような彼らの心に、いつしか火が燃え始めていることに気づいたのです。その炎は、彼らがかつて興奮し熱狂していた時に燃えていた炎とは違います。大きく燃え上がっていたあの炎は消えてしまいました。しかし、今、それとは異なる、キリストが与えてくださった炎が、静かに、しかし確かに、彼の内に燃え初めているのです。

 彼らは言いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。彼らの内に燃えている炎は、他のどこからでもない、キリストが聖書を解き明かしてくださったところから来たことに彼らは気づいたのです。

一緒にお泊りください
 さて、最初のようにただ二人だけで語り合うのではない、そこにもう一人、キリストが加わってくださる。そして、聖書を悟らせてくださる。――皆さん、それこそが私たちに与えられている信仰の経験なのです。

 物語の最初はこうでした。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」。しかし、同じ話し合うのでも、一人加わった後ではこうなっています。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」(32節)。同じ語り合うのでも、大きな違いではありませんか。

 キリストは今も聖書を解き明かしてくださいます。キリストは今も十字架と復活の意味を悟らせてくださいます。キリストは今もパンと杯を分け与えてくださいます。そして、私たちの心に、この世の熱狂や興奮ではない、本当の命の炎を与えてくださるのです。本当の意味で、「燃える心」を与えてくださるのです。そして、そこに、燃える心を分かち合い、主の恵みを語り合う交わりが生まれるのです。

 しかし、そのためにも大事な一つのことがあります。28節以下を御覧ください。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28‐29節)。

 彼らの内に起こった全ての良きことは、すべてイエス様の一方的な恵みの御業でした。しかし、その恵みを経験するために、彼らが行った唯一のことがありました。それは彼らがキリストを引き止めた、ということです。「一緒にお泊まりください。」これは復活のキリストに対する祈りです。祈りについて多くを語るルカが、その福音書の最後に記したキリストへの祈りです。キリストと共にいることを願い求める祈りです。

 私たちもまた、キリストと共にいること願います。私たちが毎週、こうして礼拝に集うこと、聖餐卓の周りに集まるということは、まさにこの祈りの具体的な表現であると言えるでしょう。今日も私たちはここにおります。イエス様と共に食卓に着いた彼らが味わった幸いに、私たちもまたあずからせていただきましょう。
(祈り)

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