2023年3月5日日曜日

「神の国は既に来ている」

ルカによる福音書 11:14‐26

汚れた霊が友達連れて戻って来る
 本日朗読されました福音書において、イエス様はこんな話をしておられました。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11:24‐26)。

 汚れた霊が人から出て行ったり、砂漠をうろついて休む場所を探してみたり、他のお友達連れて戻って来たり、という話は、ある意味では私たちには馴染みのない話です。しかし、もう一方において、イエス様が言わんとしていること、何となく分かるような気もする不思議な話です。「確かにあるある、こういうこと」って、そう思いませんか。

 例えば、人と喧嘩ばかりしている人がいるとします。争いの絶えない人。いつも心に怒りを溜めているような人。いつも他者に悪意を抱いている人。そんな人が、ある日、ふと思い立ちます。私はこんなことをしていていいのだろうか。こんな自分はいやだな。平和な穏やかな人になりたいな。そう思って、とにかく努力を始めます。穏やかな人になろうと努めます。一生懸命心の中から怒りと悪意を追い出そうといたします。そして、ある程度追い出しに成功するわけです。しばらくは、実に穏やかな人として過ごしている。周りの人も「あの人、変わったわねえ」なんて言っている。それがまた嬉しい。

 しかし、残念ながら長く続きません。あることで怒りが爆発し、口汚く誰かを罵ってしまう。すると周りの人から「やっぱり前と同じだね。少しも変わってない」とか言われます。自分でも自分が情けなくて、もう「どうでもいいや」と思ってしまう。どうせ自分はこういう性格に生まれついた不運な人間なんだ。育った環境がいけなかったんだ。そもそも親が悪い。小学校の時の教師が悪かった。そんなことを延々と考えるようになったりする。そして、気付いてみると、前よりも状態が悪くなっている。まるで出て行ったはずの「怒り」という汚れた霊が、「自暴自棄」や「自己憐憫」というお友達を連れてきたみたいです。ありそうな話だと思いませんか。

 これに類することはいろいろと考えることができるでしょう。悪いものを追い出して、クリーンな心を実現しようとする努力は、ある程度は成功するように思います。しかし、どうも長続きしない。一度失敗すると元の木阿弥となってしまう。いや、失敗した自分を責めている内に、さらに様々な悪い思いが心の中に満ちてきて、状態は以前よりずっと悪くなってしまうことも起こります。このように、汚れた霊がお友達を連れて帰って来るというイエス様の一風変わったお話は、今日の私たちにとっても極めて身近な話のように思います。

神の国は来ている
 しかし、それは身近な話であるかもしれませんが、それだけだったら救いがないと思いませんか。結局、努力したってだめなんだ。頑張って心を掃除して整えてみたところで、どうせ汚い霊がお友達連れて帰って来る場所を作っているだけなんだ、という話ならば、まことに救いのない話です。

 もちろん、イエス様はそのようなことを仰りたいのではありません。実は、この話はその前から続いているのです。その前には、口の利けない人が癒されたという話が出ています。そして、それにつづくイエス様の言葉として、この話が記されているのです。

 14節をご覧ください。そこには「口の利けない人がものを言い始めた」と書かれています。実際、この人はどれほど嬉しかったことか知れません。嬉しかったのは、ただ言葉が話せたからではありません。もともとこのような口の利けない人や「悪霊に憑かれている」と見られる人は、宗教的に差別されているのです。汚れた人として、神から遠ざけられている人として見なされるのです。罪を犯したからこんなことになったのだとも言われるのです。自分でもきっとそう思っていたに違いない。その人にとって、神は遠い遠い存在だったのです。

 しかし、そのような人のところに、イエス様が来てくださった。福音を携えて、罪の赦しの言葉、救いの言葉を携えて来てくださった。いや言葉だけでなく、イエス様のなさることそのものが神の恵みの現れでした。口が利けるようになった人の内に喜びがあったとするならば、それは神の恵みに触れた喜びなのです。神様に見捨てられてなどいない。そうではなくて神様から顧みられ愛されている。そのことを知った喜びなのです。

 ではその癒された人だけが神の恵みにあずかっていたのでしょうか。解放され癒された人だけが殊更に神に愛されているのでしょうか。いいえ、そうではありません。主はこう言われたのです。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。

 癒された人だけに神の恵みが来たのではありません。イエス様のなさっていることはしるしなのです。神の国が来ていることのしるしなのです。神の恵みの支配が既に到来している。救いは到来している。イエス様の周りに集められた人々のところに既に来ているのです。癒された人だけではありません。その周りにいる人にも、苦しみから解放された人にも、いまだに苦しんでいる人にも、神の圧倒的な恵みは既に来ているのです。メシアであるイエス様が来られたとは、そういうことなのです。

喜べなかった人たち
 神の国は既に来ている。その喜びがイエス様の周りには満ち溢れていたに違いありません。しかし、もう一方でそれを喜べない人たちがいました。彼らは言いました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)と。こう言っていたのは誰でしょう。この福音書には書かれておりません。マタイによる福音書には「ファリサイ派の人たち」と書かれています。

 彼らは極めて真面目なユダヤ人たちです。自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていた、そういう人たちです。汚れたものは大嫌い。汚れた生活をしている異邦人などとは絶対に付き合わない。律法を守ろうとしない連中となど、絶対に一緒に食事などしない。とにかく清い者となることは、一大関心事だった。そういう人たちです。それはとても良いことでしょう。しかし、彼らは神の恵みが悪霊に憑かれた人たちに現されることを喜べませんでした。

 考えてみてください。もしこれが、戒律を厳格に守り、清さを求めている人たちに神の恵みが現されたというのなら、彼らは文句を付けなかったと思います。あるいは一生懸命に努力している自分たちに、神の特別な恩恵が現されたというのならば、決して文句をつけることはなかったと思うのです。しかし、律法を守らない人たち、自分が見下している人たち、自分が汚れた人と見なしている人たちに無条件で神の恵みが現されることは、喜べませんでした。また、そのように教え、行動されるナザレのイエスはまことに赦しがたい存在だったのです。

 そのような人たちにこそイエス様は、友達連れて戻ってくる汚れた霊の話をされたのです。自分で頑張って掃除してきれいにしたつもりでいると、汚れた霊が友達連れて戻ってくるよ、と。実際、この福音書を読み進んでいきますと、そのことが明らかになってまいります。そのことがイエス様との関わりで明らかになるのです。彼らの内に、妬み、憎しみ、敵意、殺意のようなものが満ち満ちてくるのです。そして、結局それらがイエス様に対して噴出することとなるのです。いや、彼らだけではありません。民の長老たちや祭司長たちに煽動された民衆も、やがて「十字架につけろ!」と叫び出すことになるのです。これが清さを求めていた人々の内に満ちてしまったものです。汚れた霊の悪友たちです。

主の住まわれる家を造ること
 そうならないために大事なことはなんですか。イエス様はこう言われました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21‐22節)。ここで「強い人」とはサタンのことです。そして、「もっと強い者」とはイエス様のことです。もっと強い者が神の無条件の恵みを携えてきてくださいました。もっと強い者が「神の国はあなたたちのところに来ている」と言ってくださいました。この「もっと強い者」なるイエス様に来ていただくことです。私たちの心に、そして私たちの生活の中に。そして、あなたたちのところに来ていると言われる「神の国」、神の恵みの支配をもたらしていただくことです。

 信仰生活とは一生懸命に努力して自分を清める作業ではありません。信仰生活とは、悪いものを追い出してきれいな空き家をつくるのではなく、神の恵みを携えて来てくださったイエス様をお迎えすることです。私たちの心に、そして私たちの生活に。恵みをもって治めてくださる「もっと強い者」なるイエス様をお迎えし、主が住まわれる家を造ることなのです。

(祈り)

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