ルカによる福音書 9:10-17
主が迎えられるなら
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。そうイエス様は弟子たちに言われました。「彼ら」とは集まっていた大群衆です。男だけでも五千人はいたと言います。女性と子どもを合わせたら一万人を越えていたことでしょう。
なぜそのような大群衆がそこにいたのか。イエス様がベトサイダにいることが知れてしまったからです。「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」と書かれています。しかし、それだけではありません。なぜそこに大群衆がいたのか。イエス様が彼らを「迎え」たからです。「イエスはこの人々を迎え」と書かれている。11節に使われているのは「喜んで迎える」という意味の言葉です。
弟子たちからすれば想定外のことでした。「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」(10節)と書かれていますように、予定としては彼らとイエス様だけで静かに過ごすはずだったのです。イエス様はどうして「予定がある」って言って断ってくれなかったのでしょう。「弟子たちも宣教旅行の後で疲れているのだから」とどうして言ってくれなかったのでしょう。
ともあれイエス様はそうなさいませんでした。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節)。もちろんスケジュールはイエス様がお決めになるのです。仕方ありません。イエス様がお働きを終えたら、ともかく群衆を早々に解散させたらよいと弟子たちは考えていたと思います。
やがて日も傾いてきました。十二人の弟子たちはそばに来てイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。
ユダヤ人の社会では旅人をもてなすことが美徳と考えられていました。あの大群衆も個々人については旅人ですから、それぞれ散り散りに村々に行くならば、彼らを迎え入れてくれる家もあるでしょう。食事を出してくれる家もあるでしょう。なければお金を出して宿を取り、食べ物を買うまでのことです。
ところがイエス様は弟子たちにこう言われたのです。「《あなたがたが》彼らに食べ物を与えなさい」。「彼ら」とはイエス様が迎えた人々です。そうです、イエス様が迎えたのです。しかし、今度は弟子たちがこの大群衆を迎えなくてはならなくなりました。「あなたがたが食べるものを整えて、彼らを迎えてもてなしなさい」と主は言われるのです。そのように、イエス様が彼らを迎えたのなら、弟子たちもまた彼らを迎えることになるのです。
さて、私たちはしばしば喜びをもって、どんな人をも受け入れてくださるイエス様について語ります。「イエス様は全ての人を愛しておられます」「イエス様は全ての人を招いておられるのです」と口にします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエス様の言葉を愛唱している人は少なくありません。しかし、私たちはよくよく考えなくてはなりません。イエス様がすべての人を受け入れてくださるなら、わたしの隣にはいて欲しくない人がいることになるかもしれません。イエス様が招かれるのなら、私たちもまた招き迎えることになるのです。その意味で、「すべての人を招き迎える教会」という今年の年度主題を改めて考えさせられる聖書箇所であるとも言えます。
天からの恵みを分かち合う
さて、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われた弟子たちは、すぐさま「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(13節)と答えました。
もちろん弟子たちはすべての人々のために食べ物を買いに行くつもりなどありません。要するに「無理です」と言っているのです。パン五つと魚二匹しかないのに、彼らに食べ物を与えるのは絶対に無理です、と。 しかし、彼らが持っているもので足りないことなど、イエス様は重々ご承知なのです。その上で彼らを人々に向かわせられたのです。
五つのパンと二匹の魚を手にして途方に暮れている弟子たちに、主はこう命じられました。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」(14節)。弟子たちはただ主の言われるままに、人々を座らせました。その後に起こった出来事は、次のように記されています。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(16‐17節)。
いったい、そんなことがあるものか。どうしてそんなことが起こり得ようか。そう思う人がいても不思議ではありません。実際、そこで何が起こったのかは、良く分かりません。しかし、この物語が伝えようとしているメッセージそのものは明瞭です。群衆が満たされたとするならば、それは弟子たちの持っていたものによってではなかった、ということです。
弟子たちは群衆を満たすだけのものは持っていませんでした。しかし、それを弟子たちはイエス様に差し出した。イエス様がそれを受け取られた。そして、イエス様が祝福し、裂いて弟子たちに渡してくださった。弟子たちはそれを汗水流して人々のもとに運んだのです。そうです、それが「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という言葉の意味するところだったのです。
では、そこで弟子たちがキリストから受け、群衆に手渡したものはいったい何だったのでしょうか。群衆が受けたものはいったい何だったのでしょうか。パンと魚。食べる物。確かにそうです。しかし、群衆がただパンと魚を食べて満腹したというだけならば、本質的には私たちがバイキングに行って腹いっぱいになるのと変わりません。そんなことを伝えるためにこの物語が四つの福音書に記されているのではないのです。
彼らは単にパンと魚によって満たされたのではありません。そうではなくて、天の恵みを共に分かち合う喜びによって満たされたのです。そのパンが弟子たちの懐からではなく天から与えられていることは明らかだったからです。彼らの多くは、かつてイスラエルが荒れ野において「マナ」と呼ばれる天からのパンによって養われたことを思い起こしたことでしょう。あるいは詩編において「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23:1)と歌われていることを思い起こしたことでしょう。そして、メシアの王国が到来する時に、そこで祝宴が行われるという人々が抱き続けてきた希望を思い起こしたことでしょう。群衆が味わっていたのは、まさに神と人とが共にあり、人と人とが共にあって恵みを分かち合う神の国の喜びだったのです。
これはわたしの体である
考えてみれば、それは本来、集まっていた群衆と全く無縁のものではなかったはずです。というのもイエス様がそこで口にした賛美の祈りの言葉は、恐らくユダヤ人なら誰でも知っている祈りの言葉であったに違いないからです。食事において捧げられる讃美の祈りがある。それは本来食事というものが、天から与えられて分かち合われるものであることを意味します。それは神と人との交わり、人と人との交わりを指し示しているものであるはずなのです。
そのように食事というものが本来持っているはずの喜びが、ここで改めてリアルに手渡されることになりました。天の恵みを共に分かち合う喜びが、とてつもなく豊かに手渡されることになりました。なぜでしょうか。その食卓の主としてパンを手渡しているのが、他ならぬイエス・キリストだからです。神と人とが共に住み、人と人とが共に住む神の国をもたらすために、私たちの救いのためにこの世に来られたメシアだからです。
この福音書を読んでいきますと、この場面と同じように、食卓の主人として祈りを捧げるキリストの姿に行き当たります。22章に記されている最後の晩餐の場面です。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」(22:19)。
そして私たちは、その主の言葉どおりに事が進んでいったことを知っています。「これはわたしの体である」と言われた主は、その言葉のとおり、パンだけでなく、自分自身をも裂いて渡してしまうおつもりでした。――その翌日、主は十字架にかけられて死なれたのです。イエス様は私たちの罪の贖いのために、自らの体を、自らの命を裂いて渡してくださいました。私たちが罪を赦された者として、神と共に生き、人と共に生きるようになるためです。あのガリラヤの草の上で人々が味わい知ったことが、本当の意味で実現するためでした。
そのようにキリストは神に感謝して御自分の体を裂いて私たちに手渡してくださいました。しかし、それはただ私たち自身が満たされるためではありません。主が迎えられる人々がいるのです。主は言われるのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。主が迎えられる人々を、私たちもまた迎えるのです。主の命を手渡すために迎えるのです。それは、命の糧を手渡し、天からの恵みを分かち合い、共に喜びに満たされるために他なりません。それが主の望まれる教会の姿です。
(祈り)