2026年1月4日 主日礼拝説教
聖書:ルカによる福音書 2:41‐52
今日お読みしたのは、イエス様が12歳の時の話です。春になりますと過越祭を祝うためにヨセフとマリアはエルサレムへ巡礼するのを常としておりました。イエスが12歳になった年も、彼らは少年を伴っていつものように都に上りました。
しかし、そこで一つの事件が起こります。祭りを終え、ガリラヤから来た多くの人々と共に帰路に就いたマリアとヨセフは、一日路を行ったところではたと気づいたのです。「イエスがいない!」慌てふためいて親類や知人の間を探し回ります。見つかりません。彼らは道々尋ねながらエルサレムへと引き返しました。そして三日目に、ついに彼らは少年イエスを見つけ出したのです。なんと彼は神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしているではありませんか。
マリアは思わず詰問します。「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。マリアがこう言うのも無理はありません。本当に心配していたのです。しかし、少年はそんな母の心配をよそにこう答えたのでした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。
どうですか、こういう子ども。普通にこれを読んだら、実に可愛げのない子どもだと思いませんか。ちょっとばかり賢いかもしれないけれど、実に小生意気な子どもです。親の気も知らないでそんな偉そうな口を利く子どもは、少々懲らしめてやらねばならない。親の権威を重んじる常識的なユダヤ人ならば、たいていはそう思うに違いありません。
しかし、これは聖書の中でイエスの少年時代を伝える唯一の物語なのです。しかも、ここに記されているのは、ルカによる福音書において最初に発せられるイエス様の言葉なのです。さらには「母はこれらのことをすべて心に納めていた」ということが書いてある。このイエス様の言葉、イエス様の行動は後々まで伝えられねばならないほど、やはり大事なことのようです。ではこの物語は後の教会、また今日の私たちにどのような意味を持っているのでしょう。
飼い葉桶から十字架へ
イエス様が12歳の時。ユダヤ人の子どもは13歳で成人とみなされます。ですから、その直前のことです。成人しますと律法に定められている義務が課せられるようになります。それまでに子どもたちは暗記を中心とした律法の学びを完了せねばなりません。そして、成人としての義務が突然の重荷となることがないように、その前に予行演習をいたします。イエス様が12歳の時にエルサレムに連れて行かれたのも、そのような意味があったものと思われます。
少年イエスが発見された時、彼は神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておりました。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」(47節)と書かれております。しかし、この場面を思い浮かべますときに、私たちの国の12歳の少年を考えてはなりません。既に申しましたように、この時点で律法についてはほぼ一通り学びを完了し、成人として歩みだそうとする直前なのです。学者たちと話をしたり、質問したりする少年がそこにいることは決して奇跡ではありません。ルカには恐らく超自然的な要素を強調する意図はなかったでしょう。私たちが注目すべきことは他にあるのです。少なくとも二つあります。
第一に注目すべきことは、このエピソードには受難物語と関係する言葉が多いということです。両親は過越祭にイエスを連れていきました。主が十字架にかかられたのは、過越祭の時でした。少年イエスは両親と共にエルサレムへと上りました。主が十字架にかけられたのもエルサレムです。ルカによる福音書は特に大きな部分をエルサレムへと上る旅の物語に費やしているのです。少年イエスが見えなくなって、三日目に再び見いだされたという話は、三日目に復活したことを思い起こさせます。
第二に注目すべきは、イエス様自身の意識を良く現している49節の言葉です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)。ここで「当たり前だ」と訳されている言葉。これは後に受難予告に出て来ます。イエス様は御自分の受難を予告してこう言われるのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9:22)。ここで「必ず…することになっている」と訳されているのが同じ言葉です。しばしば「神の必然」と呼ばれる表現です。
何が必然なのでしょうか。「父の家にいること」です。実は「父の家」と訳されていますが、原文はただ「父のもの(複数)」としか書いてないのです。イエス様はただ神殿のことだけを言っておられるのではないのでしょう。イエス様は父のものの中にいる。父の事柄に関わっている。それは具体的にはやがてエルサレムへと上ることになり、十字架にかけられることになる人生です。そのようにして世の罪を贖い、神の救いの御業を実現することになる歩みです。それが「当たり前だ」と言われたのです。「当然そうなることになっている」と言われたのです。それが神の必然であると。
つまりこの物語から見えてくるのは何であるかと言うと、12歳の少年イエスが既にその時には天の父の定められた道を自覚的に歩み始めていたということなのです。はっきりと意識して、天の父との関わりの中に生きていた。イエス様が「父」と言ったら、それはヨセフではなくて神なのです。そして、その父の御計画を実現するために、イエス様は既に命を献げて歩み始めていたのです。十字架に向かって歩み始めていたのです。それを現しているのが、このイエス様の言葉なのです。
準備の時を大切に
しかし、そのような意識を持っていたイエス様がすぐに公の働きをスタートしたかと言えば、そうではありませんでした。3章に入って再びイエス様が登場します。しかし、それは約20年後のことなのです。イエス様の公の活動が開始したのはその歳およそ三十の時でした。私たちが伝えられている主のお働きは、十字架にかけられるまでの約三年ほどなのです。その期間に比べるならば圧倒的に長いそれまでの期間が、この短い一言の陰に隠れてしまっているのです。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」。
ヘブライ人への手紙には、そんなイエス様の歩みについて次のような表現が出て来ます。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5:8)。その多くの苦しみの道のりは、その御生涯の最後の一週間だけではありません。既に飼い葉桶から始まっていたと言えます。イエス様にとっては、何よりもまず、父母のもとで一人の子どもとして生きる具体的な生活の場こそ、従順を学ぶ場だったのです。
考えてみてください。確かにヨセフもマリアも敬虔なユダヤ人であったと思われます。主はその敬虔な家族でお育ちになりました。しかし、ヨセフやマリアはイエスにとっては決して完全な父や母ではありませんでした。ヨセフやマリアがどれほど神を畏れる敬虔な人であったとしても、イエスに対する父なる神の御計画はやはり理解できなかったのです。イエスにとっては、本当に大事な部分においては自分を分かってはもらえない父母だったのです。
既に天の父との関わりを自覚し、天の父の御心に従って生き始めていたイエス様です。そのようなイエス様にとってマリアとヨセフのもとにおける生活には、多くの人知れぬ苦しみがあったのだと思います。しかし、主はまずその父母のもとに生きるその時を大切にされたのです。人に仕えることを通して神に仕えることを学び、苦しみを耐え忍ぶことを通して父に信頼しどこまでも従っていくことを学ぶ。そのような従順を学ぶ時として大切にされたのです。
私たちに「従ってきなさい」と言われた方は、そのような御方です。イエス様のわずか三年の公の働きのために、そのような二十年もの従順を学ぶ備えの時が必要であったなら、私たちにはなおさらではありませんか。私たちに与えられている場は、すべて従順を学ぶ場となり得るのです。人に仕えることを通して神に仕えることを学び、人の無理解や不当な扱いや様々な苦しみを耐え忍ぶことを通して、どこまでも天の父に信頼し、従い続けることを学ぶことができる、実に多くの機会を与えられているのです。
いわば従順を学び、主の御業のために整えられるための学校に、学費も払わずに入れてもらっているとも言えるのでしょう。しかし、実際の学校においても不満ばかり言って授業をサボっていたら何も学ぶことができないように、神の学校としての私たちの生活も、不平や不満ばかり言って折角の授業を無駄にしていたら何も学べません。
与えられている今の時、今の場所を大切になくてはならない。2026年の初めの礼拝において、改めてそう思わされます。クリスマスの礼拝において申しましたように、人間の幸福は、神様と共に歩んで、神様に用いていただくところにこそあるのです。自分の一生を誰かのために、誰かの救いのために、神様が誰かを愛するために、用いていただく。そこにこそ人間の幸福はあるのです。
神様が私たちをお用いになる仕方は、もしかしたら稲妻の一瞬の閃きのようであるかもしれません。人生の最後の一瞬、あるいはこの世の生を終えた後でさえあるかもしれません。しかし、まさにこの「ときのために私は生まれたのだ」と言える一瞬があるならば、その人は本当に幸福な人であると言えるし、その一生は永遠の意味を持つのです。
逆に言えば、神に用いられる一瞬のための備えであるならば、例えそれが人々の目に映ることなく、人々の記憶に残ることなく、いかなる記録にも残ることなくとも、その費やされた時は永遠の価値を持つと言えるのでしょう。イエスの生涯の大部分が、人々の記憶に残ることなく、いかなる記録にも残ることなかったように。そうです。私たちが今の時を備えの時として生きるならば、それは実に価値ある時を生きていることになるのです。与えられている今の時、今の場所を大切にしましょう。備えの時を大切にしましょう。