2024年12月15日 主日礼拝説教
聖書:フィリピの信徒への手紙 4:4-7
喜びなさい
アドベントの第三週となりました。アドベントに灯される三番目のキャンドルは「喜びのキャンドル」と呼ばれます。その「喜びのキャンドル」を灯した礼拝において、先ほど第2朗読において、フィリピの信徒への手紙が読まれました。この手紙は「喜びの手紙」とも呼ばれます。この手紙には「喜び」という言葉が繰り返されているからです。今日お読みした箇所にも次のように書かれていました。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4節)。
ある意味では、とても不思議な言葉です。「喜びなさい」と言われて、人は喜べるものではありません。感情は自由にコントロールされ得ないことを私たちはよく知っています。しかも、喜べない理由を山ほど抱えている時にはなおさらでしょう。だから普通私たちは他の人に、やたらに「喜びなさい」とは言いませんし、誰かから「重ねて言います。喜びなさい」などと言われても困ります。
にもかかわらず、この手紙には当たり前のように「喜びなさい」という言葉が繰り返されているのです。この手紙を書いているパウロにしても、この手紙を受け取っている教会にしても、喜べない理由はいくらでもあった――にもかかわらずです。実際、フィリピの教会には分裂や仲違いがありました。教会内部の問題だけではありません。外からの迫害もありました。実際、パウロはこの時、獄中にいるのです。思い返せば、福音の宣教のために働き始めてからというもの、彼の人生は苦難の連続でした。喜べない理由を挙げるなら、それこそ数限りなくあったはずです。しかし、そのパウロが言うのです。「喜びなさい」と。
どうしてなのか。そこには喜ぶべき決定的な理由があるからです。そうでなければ「喜びなさい」という言葉はそもそも意味をなしません。その決定的な理由とは何か。パウロはそれを「主において」という短い言葉をもって表現しています。「主において」という言葉は、パウロの手紙に実によく出てくる言葉です。同じ言葉が他の箇所では「主に結ばれて」とも訳されています。主に結ばれている。それが理由です。
信仰によってキリストと結ばれているのです。キリストの内にいるのです。そのキリストとは、私たちを愛し、御自身を献げてくださったキリストです。私たちの罪の贖いのために十字架にまでおかかりくださったキリストです。その御方と結ばれて、私たちは罪を赦された者として、救われた者として、愛されている者として、今生かされているのです。
この世界は移り変わっていきます。人間が置かれる状況も教会が置かれている状況も刻一刻と変化していきます。幸いの絶頂にあった人が、次の日には奈落の底にいるということも起こり得るのがこの世の中です。この世のことだけを見ているならば、過去を悔い、未来を思い煩いながら生きざるを得ないのかもしれません。この世界は移り変わるからです。
しかし、ここで語られている「主において」という事実は、主に結ばれているという事実は、何が起ころうと変わらないのです。どのような状況に置かれても変わらないのです。パウロのように投獄されても変わらないのです。さらに言うならば、死んでも変わらない。迫害いよって命を奪われても変わらないのです。パウロは別の手紙で言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」(ローマ8:35)と。誰もできない、ということです。
そのような決定的な理由があるのです。それは変わらないのです。要はその事実に目を向けているか否かということです。信仰によって歩んでいるのか、それともこの世のことだけ見て生きているのか、ということです。だからパウロは、見るべきところに目を向けさせて、つまり「主において」という事実を指し示して、「喜びなさい」と言うのです。いや「喜びなさい」だけではありません。「常に喜びなさい」とさえ言うのです。変わることのない理由があるからです。
皆さん、私たちは毎週毎週、相も変わらず、このように変わらないことを繰り返しています。しかし、これは大きな恵みなのです。私たちの人生に何が起こったとしても、この世界に何が起こったとしても、絶対に変わらず必ず日曜日は来るのです。その日には、神が礼拝へと招いてくださるのです。私たちには、変わらない神の愛の内にあることを共に喜び、共に感謝をささげ、私たちは共に変わらないものを土台として生きる人生が備えられているのです。そうです、ここにいる私たちだけではありません。私たちはパウロとも同じ土台に立って生きているのです。だからこそ、この言葉も意味を持つのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。
広い心が知られるように
そして、さらにパウロは言います。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(5節)。主から来る「喜び」はただ「喜び」として人間の内に留まるのではありません。その「喜び」は「広い心」となって他者へと向かうものとなるのです。
それはある意味では当然のことです。主によって罪を赦された喜びは、他者を赦す心を生み出すのです。主によって受け入れられた喜びは、他者を受け入れる心を生み出すのです。主の広い心が私たちの喜びなら、その喜びは私たちの内に広い心を生み出すのです。
ですから、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とは、要するに、「主において常に喜びなさい。その喜びをもって人々と共に生きていきなさい」ということに他ならないのです。大事なのは「喜び」なのです。そして、その源である「主にあって」という事実なのです。主との関係なのです。ですからここでパウロは一言付け加えるのです。「主はすぐ近くにおられます」(5節)と。
このアドベントに思い巡らすべき大事なテーマの一つはキリストの再臨です。キリストが再び来られることを私たちは信じているのです。しかし、そのことをずっと遠い所からやってくるように思い描く人がいるかもしれません。しかし、初代教会が持っていたイメージは異なるのです。そうではなくて、「戸の外に立っておられるキリスト」なのです。もうすぐにでも戸を開けて入ってこられる。救いをもたらすために入ってこられる。そのようなイメージです。
それは二千年経ってしまった今でも同じはずなのです。やがて主が来られる。今にでも来られる。その時、私たちははっきりと知ることになるのです。主に赦されているとはどういうことか。主によって愛されているということがどういうことか。救われているとはどういうことか。やがて私たちは知ることになるのです。この世界が過ぎ去っても変わることのないものを、その事実を、はっきりと見ることになるのです。そして、それは思いの外近いのかもしれません。「主はすぐ近くにおられます」とパウロは言うのです。
思い煩うのはやめなさい
それゆえに、さらにパウロは、「思い煩うのはやめなさい」と語るのです。喜ぶことと思い煩わないことは、同じ主に結ばれた生活の裏と表です。積極的な側面と消極的な側面と言っても良いでしょう。それゆえに「主は近い」と語ったパウロは、さらに具体的な勧めとして、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧めるのです。つまり、「主において」生きる生活は、先にも触れましたように、祈りと礼拝という具体的な形を取るのだということです。
パウロにしても、フィリピの信徒たちにしても、喜びを奪っていく要因、思い煩いの種は数え切れないほどあったに違いありません。しかし、そこにおいて思い煩わないで生きるために必要なことは、思い煩いの種を必死になって取り除くことではないのです。そうではなく、主にある者として生き、神に祈り、変わることなく神を礼拝して生きることなのです。
パウロはここで「神に打ち明けなさい」と言っています。これは単なる願いごと以上のことです。それは「感謝を込めて」という言葉が伴っていることからも分かります。しかしながら、「感謝を込めて」というのは、無理をして、表面だけをとり繕って、感謝の言葉を神に捧げるということではありません。そうではなくて、いかなる言葉をもって祈ったとしても、その祈りの根底に変わらぬ神への信頼と感謝があるということなのです。
そこで重要になるのが、先ほどから語っています「主において」ということなのです。祈りが「主において」なされるということです。それは主によって赦され、救われた感謝と喜びをもって献げる祈りであるということです。そのように祈りがなされる時に、それはまた「神は私たちを愛しておられて、私たちに最善を為してくださる」という神への信頼に基づいて献げられる感謝の祈りともなるのです。
では、そのように「神に打ち明ける」時に、いったい何が起こるのでしょうか。パウロはこう言うのです。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。
人において本当に守られなくてはならないものは何か。それは「心と考え」です。ここで語っているパウロは、獄中にいるのです。いつ引き出されて処刑されるかも知れぬ身なのです。彼は自分の命を自分で守ることができません。しかしパウロは、人知を越える神の平和によって、心と考えとを守られているのです。そのような人をこそ、私たちは「神に守られている人」と呼ぶべきでしょう。
一生懸命に自分の身を守り、立場を守り、メンツを守り、病気から肉体を守り、経済的な困窮から生活を守ろうとするうちに、そのように自分を守ることに一生懸命になっているうちに、いつの間にか本来の喜びを失って、心と考えがボロボロの雑巾のようになってしまうことは起こり得ます。私たちは、神の平和によって、まずは心と考えとを守っていただかなくてはなりません。パウロと同じ土台に立って、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」という言葉をしっかりと受け止めることができる状態に、私たちの心も考えも守っていただかなくてはならないのです。