ホセア書 2:4‐15
先週に引き続き、ホセア書を読んでまいります。先週も申し上げましたとおり、ホセア書の最初の3章には、断片的にではありますが、預言者ホセアの個人的な結婚生活の消息が伝えられております。1章では他者による報告の形をとって三人称によって語られ、3章では本人による報告の形をとって一人称で語られているのです。そして、この1章と3章に挟まれる形で、2章の韻文による預言の言葉が記されております。
今日は2章4節から15節までをお読みしました。この部分は妻を断罪する夫の激しい怒りの言葉から始まります。4節から7節前半までをご覧ください。
私たちがまずここに聞きますのは、ホセア自身の怒りの声であることには間違いないでしょう。「告発せよ」という言葉から、場面としては法廷を考えることができます。しかし、実際の訴訟がなされていると考える必要はありません。後の方を読みますと、このような表現はあくまでも形式に過ぎないことが分かります。いずれにせよ、この場合、4節で「彼女」と呼ばれているのはホセアの妻であるディブライムの娘ゴメルです。また、6節において「その子ら」と呼ばれているのは、妻が不貞によって身ごもった子供たちということになります。
しかし、その先を15節まで読んできますと、この部分では単純にホセアとゴメルの個人的な関係のみを語っているのではないことが分かります。15節には、「バアルを祝って過ごした日々について、わたしは彼女を罰する。彼女はバアルに香をたき、鼻輪や首飾りで身を飾り、愛人の後について行き、わたしを忘れ去った、と主は言われる」と書かれているのです。
つまり、これはあくまでも預言の言葉、すなわち神の言葉なのです。単にホセアの個人的な感情から出た言葉ではないのです。ここで怒りをもって語っているのは、明らかに主(すなわちヤハウェ)なる神なのです。その場合、彼女と言われているのは、主に背いたイスラエルの民なのです。このように、この箇所に語られている預言の言葉においては、二つの関係が重ね合わされているのです。一つは、ホセアとゴメルの不幸な関係です。もう一つは、主なる神とイスラエルの民の間の不幸な関係です。ここに響いているのは、妻の不貞を怒るホセアの声であると同時に、イスラエルの民の不貞を怒る神の声なのです。
まさに、この二重の関係こそが、ホセア書のメッセージを独特なものとしているのです。ホセアが預言者として神の言葉を聞き、民に語るということは、単に超自然的な神秘体験の中で神のメッセージを聞き、そして伝えるということではなかったのです。そうではなくて、ホセアは自らの崩壊した家庭という現実の痛みの中で、その痛みを通して、神の御心を知り、そして語ったのです。まさにその預言の言葉において、ホセアの苦悩と神の苦悩が一つとなっているのです。
そのことを踏まえた上で7節の後半に目を向けましょう。ここで「彼女」と呼ばれているのは、ホセアの妻であり、同時にイスラエルの民です。もちろん、ここに書かれていることを、そのままホセアの妻ゴメルが不貞に走った理由として読むことには無理があるでしょう。結婚の破綻の原因はこんなに単純ではないでしょうから。
しかし、そのことを弁えつつも、なお聖書独特の仕方で単純化されたこの言葉に耳を傾けることには意味があろうかと思います。聖書は、この不貞の妻をどう描いているのか。彼女は、夫との真実な関係よりも、物質的な豊かさと欲望の充足を求めた愚かな女として描かれているのです。そして、この愚かな女の姿こそ、主に背いた愚かなイスラエルの民の姿に他ならないと預言者はここで語っているのです。
イスラエルの民にとっての「愛人たち」とは、カナンの地においてもともと地方ごとにまつられていた、通常「バアル」として知られている神々でありました。それはいわゆる生産の神であり豊穣の神なのです。「バアル」という言葉自体は、「主人」あるいは「所有者」という意味です。その名のとおり、バアルは各地方ごとに、その地域の所有者とされていたのです。そして、その所有者である男性神バアルと大地の女神との性的な関係において生じるのが大地の産物であると考えられていたのです。
半遊牧生活をしていたイスラエルの民がカナンの農耕地帯に移住した時から、このような豊穣神礼拝、バアル礼拝は様々な形において、イスラエルの民に関わってきました。バアル祭儀は、常にイスラエルの民の心を引き付け、そして深くその生活に入り込んでいったのです。私たちはそのようなイスラエルとバアルとの関わりを、旧約聖書の中の多くの部分に見いだすことができます。
それはホセアが活動した時代においても同じでした。ホセアが活動を開始した頃、ヤロブアム二世の時代、それはまだ繁栄と平和の時代でありました。そして、そこには、経済的な繁栄の中で、さらなる豊かさを求め欲望の充足を求めて、豊穣の神であるバアルを慕い求めるイスラエルの民の姿がありました。そこには国を挙げて主なる神から離れ、バアルを求めるイスラエルの姿、より正確にはバアル化したヤハウェ礼拝において豊穣の神を求める民の姿がありました。そのイスラエルの姿は、まさに欲望に動かされて愛人を求め、不貞に走った愚かな妻の姿と同じであることを、主はホセアに示されたのです。
主なる神とイスラエルの民との関係は、本来ホセア書に見るとおり、結婚における真実な愛の関係にたとえられるものなのです。それは妻と夫との関係なのです。申命記には「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4‐5)という言葉があります。このように、主に愛されている者として主を愛して生きる。主の恵みに応えて、主への信頼と従順に生きる。それが主を礼拝する者の本来の姿であるはずでした。
しかし、往々にして、人は主御自身に関心を向けるのではなく、自分の願望の実現、欲望の充足にしか関心を向けていないものです。しかし、もしそうならば、主を礼拝していると言いながら、実際には求めているのは豊穣の神バアルに他ならないのです。神が何を与えてくれるか、ということにしか関心がないならば、それはバアル礼拝でありバアル宗教なのです。それは夫との関係を捨てて、「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ」と言っている愚かな女の姿と同じなのです。
このような妻に対して、夫は行動を起こします。彼は何をしようとしているのでしょうか。先にも見ましたように、この箇所は妻に対する夫の激しい怒りの言葉から始まりました。夫は、「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない」と叫んでいたのです。
しかし、ここを読み進んで行きますと、奇妙なことに、その言葉の通りには展開していないことに気づきます。もはや妻でも夫でもないならば、当然の帰結は「離縁」でしかないでしょう。あるいは、モーセの律法によるならば、不貞は死罪に当たりますから、石で打って殺してしまうこともできるのでしょう。しかし、この夫はそのように事を進めないのです。
8節をご覧ください。夫が願っていることは、妻との関係を断ち切ることでも滅ぼすことでもありませんでした。そうではなくて、妻が帰って来ることだったのです。私たちはここに至って、あの怒りの叫びは愛するゆえの叫びでもあったことを知ることになるのです。妻でも夫でもないという激しい怒りの言葉は、真に妻と夫の関係であることを求めているゆえの叫びであったのです。主は、ホセアを通して激しく叫びます。「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない!」しかし、これと同じほど激しく、主は背いている御自分の民を求めておられるのです。主は人が立ち帰ることを求めておられるのです。どんなことをしてでも、取り戻そうとされるのです。そのためには、茨で道をふさぎ、石垣で遮り、道を見いだせないようにさえするのです。
それが具体的にどのようなことを指すかは、10節以降に記されています。聖書は、物質的な豊かさそのものを悪であるとは言いません。それは主が与えたものだ、と言うのです。しかし、豊かさを追い求めることが主の愛を見失わせ、主との真実な関係を失わせるならば、主は自ら与えていたものを取り戻すこともされるのです。ここで語られているのは、具体的にはヤロブアムの時代に人々が享受していた繁栄を主が自ら取り去るということを意味していたのです。
そしてさらに13節以下で、主はイスラエルの礼拝祭儀をやめさせると言われます。ヤロブアムの時代に、神殿における祭儀がどれほど盛大に行われていたかは、預言者アモスが伝えています。しかし、それがどれほど盛大に行われていようが、それが人間の欲望の投影でしかなく、実質的にはバアル礼拝でしかないならば、主はそれをすべてやめさせる、と言われるのです。そして、主は言われるのです。「バアルを祝って過ごした日々についてわたしは彼女を罰する」(15節)と。
主は御自分の民を罰せざるを得ません。主を忘れ去っている民を愛するゆえに、罰せざるを得ないのです。確かに、この箇所に聞くのは大変厳しい言葉であるに違いありません。しかし、私たちは、このような厳しい預言の言葉の中にこそ、主に背く者たちを見捨てることなく、なおも関わり続けようとされる主の真実を見るのです。