2023年11月12日日曜日

「あなたは祝福の源となる」

創世記11:31-12:9

わたしが示す地に行きなさい
 今日お読みしましたのはアブラハムという人の話です。彼の名はもともとアブラムと言いました。アブラムは父テラと共にカルデアのウルというところに住んでいました(11:31)。ウルは古代メソポタミアにあった都市国家です。そこから父親のテラは家族を連れてユーフラテス河を800キロほど遡り、ハランに移り住みます。

 なぜテラが家族を連れてウルから800キロも離れたハランに移り住んだのか理由は定かではありません。いずれにせよ、それは父テラの意志によるのであって、息子のアブラムの意志によることではなかったことは明らかです。「テラは、息子アブラム…を連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった」(11:31)と書かれているとおりです。

 しかし、面白いことに、この話を15章まで読みますと、そこで主はアブラムにこう言っておられるのです。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である」(15:7)と。つまりウルから導き出したのは父親のテラではなく、神様なのだと語られているのです。つまり、アブラムと神様との関わりは、アブラムのあずかり知らぬところで、既に始まっていたということです。アブラムは神によって導き出されたのです。

 私は今、頌栄教会の牧師をしています。しかし、そもそも私と教会との関わりは私のあずかり知らぬところで既に始まっていました。私の両親がキリスト者であり、私は母親のお腹にいる時から教会に行っていたからです。今日、ここにお集まりの方の中には、最初は親に連れられて教会に行ったという人が少なくないことでしょう。ちょうどテラに連れられてアブラムがウルからハランに移り住んだように。しかし、聖書の見方によるならば、教会に連れてきたのは親ではなく神様だったということになるのです。

 あるいはキリスト者の家庭ではなく、どこかで意を決して教会に足を運んだという人もあるでしょう。しかし、全く何の脈絡もなく教会に行く人はおりません。その前にきっかけなり出会いなりの備えが必ずあったはずです。しかし、聖書の見方によるならば、それは人によるのではなく、神様によるのだ、ということになるのです。

 しかし、そのようにアブラムのあずかり知らぬところで既に関わっておられた神様だったのですが、ある時点でアブラムに出会われこう語りかけたというのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)と。

 神様はアブラムに旅に出ることを求められたのです。しかも、「わたしが示す地に行きなさい」と言うのです。言い換えるならば、神の導きに従って旅をしなさいということです。それは、どこまでも私に信頼して生きていきなさい、ということに他なりません。先が見えるならば、目的地が分かっているならば、自分で計画を立て、自分を頼りに歩いていけます。しかし、「わたしが示す地に行きなさい」ということならば、示されるまではどこか分からない。先が見えないのです。先が見えないならば、ただひたすら神に信頼するしかありません。神様は、アブラハムに、そのような旅に出ることを求められたのです。

 つまりこういうことです。確かにこれまで神様は共にいてくださいました。ウルからアブラムを導き出したのは神様でした。しかし、これからは自覚的に、意識的に、神に全幅の信頼を置いて、どこまでも神を信じて神と共に歩んでいく。そのような新しい人生の旅に出るようにと、神はアブラムに求められたのです。

 実際、アブラムは文字通り旅をしながら生きた旅人であり、寄留者でありました。その人生そのものは、常に先が見えない旅であったと言えます。アブラハムの物語を読みますと、次から次へといろいろなことが起こってくる。しかし、考えてみれば、それは何もアブラムに限ったことではありません。私たち皆同じであるとも言えます。

 しかし、意識的に自覚的に、旅を導いてくれる主に信頼して旅を進めるならば、旅の仕方は明らかに違ってまいります。どんなに希望なきところにおいても、なお望みを抱きつつ信じたアブラハムのことが、今日の第二朗読においても語られていました。人はそのように生き得るのです。

 そのような自覚的に神に信頼して生きる新しい人生の旅を「信仰」と言い換えることもできるでしょう。そして、アブラムは自覚的に、意識的に、自らの決断をもって、信仰の旅への一歩を踏み出したのです。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(4節)と書かれているとおりです。神との関わりは人間の知らないところで神から始まります。しかし、信仰生活への第一歩はそのように自分自身の足で、自分自身の意志をもって踏み出すところから始まるのです。

あなたは祝福となる
 そして、アブラムに信仰を求められた神は、さらにアブラムにこう言われます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。

 主はアブラムを「祝福する」と言われました。これは神の約束です。神はアブラムに信仰の旅に出ることを求めるだけでなく、彼に祝福の約束を与えられました。しかし、神が祝福すると言われるのは、単にアブラムのためではありません。主は「祝福の源となるように」と言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。ちなみに「祝福の源」というのは意訳です。そこから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな良い訳ではあると思います。しかし、原文は「祝福となる」と書いてあるのです。「あなたが祝福になるのだ」ということです。

 私たちがどこまでも神に信頼して生きていくのは、信仰の旅路を歩んでいくのは、単に私たち自身が祝福されるためではありません。私たちが祝福になるためです。この世界に与えられた祝福になるためなのです。私たちのこの身が、私たちが生きていることが、誰かにとっての祝福となるためなのです。

 世の中には「わたしはやりたいことを十分にできました。わたしは十分に楽しみました。もう思い残すことはありません。」そう言って一生を終える人もいるのでしょう。そのような人をこの世では「幸せな人」と呼ぶのかもしれません。しかし、本当に幸せなことは、私たちが一生を終えた時に、あの人は私たちにとってまさに神からの祝福だったと思い起こされるような、そんな一生を送ることではないでしょうか。

 そのために求められているのは何か。繰り返しますが、主は「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われたのです。アブラムに求められたのは、そのことだけだったのです。神に全幅の信頼を置いて生きることなのです。祝福は人から出るのではありません。祝福は神から来るのです。だから私たちが誰かにとっての祝福となるとするならば、必要なことはどこまでも神に信頼して神と共に歩む人となることなのです。

 その具体的な姿が、今日お読みした箇所に描かれています。そこで繰り返されているのは「祭壇を築いた」という言葉です。アブラムの住居は天幕です。簡単に立てたり、畳んだりできるテントです。しかし、祭壇はそうはいきません。彼はシケムに着いて、そこで祭壇を築いた。石を積み重ね、時間をかけて築くものなのでしょう。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住んだら、そこにもまた重い石を積み重ね、時間をかけて祭壇を築くのです。

 祭壇とは祈りの場所であり、礼拝の場所です。信仰生活とは祈りの生活であり礼拝の生活です。その祭壇を生活の中にしっかりと築いていくことです。どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。

 そのように、信仰は観念ではなく具体的な形を持つのです。神に信頼して神と共に生きるということは単に頭や心の中のことではありません。アブラムにとって「旅に出る」という具体的な一歩があったように、また生活の中で具体的に築いた目に見える祭壇があったように、目に見える教会生活があり、目に見える洗礼式があり、目に見える聖餐式があり、目に見える祈りの生活があり、目に見える礼拝の生活があるのです。そのような具体的な旅をこの地上で進めながら、神の約束を信じ、神がこの世界に祝福をもたらすためにこの人生を用いてくださることを信じて生きていくのです。「わたしはあなたを祝福する。祝福の源となるように」と主は言われるのです。

 今日は「子ども祝福礼拝」を共におささげしています。子どもたちの上に、心を合わせて神の祝福を祈り求めました。しかし、子どもたちの上に祝福を祈り求めるならば、何よりもまず、大人たちが、子どもたちにとっての祝福となることを求めるべきなのでしょう。そのためには、まず大人たちがしっかりと祭壇を築くことです。神と共に生きる生活、神に祈り、神を礼拝する生活をしっかりと築くことが必要なのです。祭壇が崩れてしまっているならば、もう一度築き直しましょう。


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