2025年8月3日日曜日

「聞いていてくださる神」

2025年8月3日 平和主日礼拝説教 

聖書:創世記 21:9-21

不信仰の結果
 「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。今日の第一朗読はこのような言葉から始まりました。

 これだけ読みますと、自分の子供がからかわれているのを見て腹を立てたサラがその子と母親を追い出そうとしたという話に見えます。しかし、実は問題の根はもっと深いところにあるのです。サラが言っているように、これは「相続」の問題だからです。

 なぜそこに相続の問題が生じているのか。少し話を遡ってみましょう。ここに出てきます「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に生んだ子」は名前を「イシュマエル」と言います。イシュマエル誕生に関わる話は、創世記16章に出ています。

 その頃、アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライはアブラムにこんな提案をしたのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては決して珍しいことではなかったようです。

 しかし、問題はその提案の内容よりも、サライがこのような提案をした理由にあるのです。というのも、このサライの提案は、要するに、「もう神に信頼して、神に期待して待つのはやめましょう」ということを意味したからです。

 かつて神はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。「あなたを大いなる国民にする」とは、要するに子孫を増やすということです。アブラムもサライもこの主の言葉を信じて、旅に出たのです。それがそもそもの発端でした。さらに創世記15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」

 しかし、実際には何年経っても子供は生まれませんでした。先ほど引用した16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。神様の約束が実現に向かって進んでいるとは思えませんでした。昨日も今日も何も変わらないのです。何も変わらない日々は永遠に続くように思えました。そこで出てきたのが先ほどの提案だったのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。

 「主はわたしに子供を授けてくださいません」――要するに、「神がしてくださらないならば、私たちの手で実現しましょう」ということです。「もう待つのはやめましょう。もう神に期待することはやめにして、私たちのできる仕方で実現しましょう」ということです。そして、実現したのです。アブラハムは子孫を得ることとなりました。それがイシュマエルでした。しかし、それは「神の約束の成就」ではありませんでした。

 当然のことながら、アブラハムがイシュマエルを見る時に、「神様、あなたは真実な御方です」と感謝の祈りを捧げることはできなかったはずです。事実は逆だったからです。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。信頼することをやめた時があった。アブラムは、イシュマエルを見るたびにその事実を思い起こしたに違いありません。

もう苦しまなくてよい
 やがて時満ちて、サラにも子供が生まれました。それは神の約束の成就でした。その誕生の次第は今日お読みしました箇所の直前に書かれています。アブラハムはその子をイサクと名付けました。その名前は「笑う」という言葉に由来します。まさに、イサクの誕生は神の約束の成就として、アブラハムの家庭に喜びに満ちた「笑い」をもたらしたに違ありません。そうです、そのはずでした。

 しかし、そのすぐ後に今日読まれた聖書の言葉があるのです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。

 神が与えてくださった喜びと笑いに満ちたイサクの誕生。その笑いに満ちているはずの生活の中に、こうして敵意と争い、それゆえの様々な苦しみが、相続の問題という形で入り込んできていたのです。

 「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」そう書かれています。神の約束においては、もともと相続の問題やそれに伴う苦しみはなかったはずだということは分かっています。これは過去のある時点において、神が真実な方であることを信じることをやめた結果であることも分かっているのです。すべては不信仰のゆえだ、と。

 その結果、自分が苦しむだけではない、サラはサラとして苦しみ、ハガルとイシュマエルも苦しむことになってしまった。アブラハムは、あの時のことを悔やんだかもしれません。なぜ待てなかったのだろう。なぜ神に期待することをやめてしまったのだろう。なぜ神に信頼し続けなかったのだろう。しかし、悔やんでも過去が変わるわけではありません。

 しかし、神はそんなアブラハムに現れてこう言われたのです。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(13節)。

 神はこのような事態をもたらしたアブラハムの過去を責めませんでした。そうではなく、「苦しまなくていい。心配しなくていい」と言ってくださったのです。ここに語られていることは何ですか。私に任せなさい、ということです。すべては人間の罪と不信仰が招いたことなのに、神はその現実に慈しみ深くかかわってくださるのです。「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。神はそう言ってくださった。だからもう苦しまなくていい。心配しなくていい、と。

神は聞いていてくださる
 そして、神はそのような神であることを、ハガルとその子に対しても現されたのでした。それが14節以下に書かれていることです。

 「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)。こうしてハガルはアブラハムの家を立ち去ることとなりました。彼女と子供はベエル・シェバの荒れ野をさまよいます。やがてハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。子供は次第に弱っていきます。自分は子供を助けることができない。目の前で子供が死んでいくのを見るのは耐えられませんでした。ハガルは灌木の日陰に子供を置いて、遠く離れていきました。子供が泣き出します。母親も遠くで泣いている子供を見て、声を上げて泣きました。

 しかし、もはや泣くことしかできないハガルに、神は御使いを遣わしてこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。

 泣く声を主は聞いておられました。泣く声は神への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて神は聞いていてくださったのです。その上で、まず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。

 すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。当然のことながら井戸は前からそこにあったのでしょう。彼女が絶望して大声で泣いていたその時に、既にその側には神の備えがあったのです。神は目を開いて、その事実を見せてくださったのでした。

 もちろん、それでハガルが過去に戻れるわけではありません。彼女は今置かれている現実を受け入れなくてはならない。しかし、彼女もまた、アブラハムと同じように、彼女が知った神の慈しみの中を生きていくのです。泣く声さえも祈りとして聞いていてくださる神。そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている神。そのような神を知った人として、ハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。

 そして、私たちもまた、そのように生きて行くのです。今日は平和主日です。しかし、現実に私たちが見ているのはズタズタに引き裂かれた平和を失った世界です。互いに憎みあい、傷つけあい、裁きあい、殺し合っている世界です。それは、私たち人間がその初めから、神に背いて自らに招いてきた現実であるとも言えます。しかし、そのような世界のただ中で、こうして平和主日の礼拝をささげるのは、共に平和を祈り求めることができるのは、神が人間の罪にもかかわらず、この世界を、私たちを憐れんでくださると信じているからです。神は聞いていてくださる神だと、信じているからです。そして、神は確かに、私たち自身にも、この世界にも、慈しみ深く関わってくださるのです。

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