2023年9月17日日曜日

「さあ、目を上げなさい」

 創世記 13:1-18
説教:森野真理牧師(福野伝道所、福光教会)

失敗から主に立ち帰らされる
 今日ご一緒に聴く聖書の言葉は、のちのアブラハムの物語です。アブラムという名前は、後に神様によってアブラハムという名前に改名します。「イスラエルの信仰の父」と呼ばれるアブラムですが、なぜそのように呼ばれるのか、どのような人物であるのか、その人物の歩みを通して私たちに何が語られているのか、今日の聖書からご一緒にお聴きしましょう。


 アブラムの旅についてダイジェスト版でお話しするところから始めたいと思います。アブラムの旅は、カルデアのウルという場所から始まりました。アブラムはまずカナンの地に導かれました。このカナンの地をあなたとあなたの子孫に与えるという約束の土地を、アブラムに見せるためであったからです。その場所において、アブラムは祭壇を築き、神様を礼拝しました。次に導かれた土地でも、アブラムは祭壇を築いて主の御名を呼び、礼拝をささげたと書かれています。75歳から始まった神様と人生を共にするアブラムの旅路は、神様を礼拝することと共にありました。

 しかし、旅の序盤で最初のつまづきの出来事が起こりました。いわば信仰の試練です。それはアブラムたちが滞在していた場所で飢饉が起こったときでした。飢饉は命の危機ですから、家のリーダーであるアブラムは家族にとって一番いい方法を考え抜いたすえ、エジプトに逃れるという選択をしました。ナイル川があるために土地が肥えていて作物がよく実る大国エジプトには、アブラムと同じように飢饉から逃れてきた人々がたくさんいたでしょう。人の目から見れば、これはとても良い、安全な選択であったに違いありません。でも神様の目には、このアブラムの選択は良しとされなかったのです。なぜなら、危機に直面したアブラムが頼ったのは、自分の知恵であり大国エジプトという人間の力であったからです。そればかりか、アブラムは自分の美しい妻を妹と偽って保身を図り、その偽りによって大きな財産を得ました。しかし、神様が与えると約束してくださった土地から離れ、神様を信頼することのできなかったアブラム・・・ではなく、エジプトの人々が災難に遭います。それはエジプトの人々に主なる神様の力をあらわすためでした。アブラムが嘘をついていたせいで災難を被ったのですから、普通ならばここで殺されてもおかしくない状況です。でもそうならなかったのは、アブラムの命が奪われることのないように、神様がその力をエジプトの人々にあらわされたからです。命どころか、エジプトで得た豊かな財産も奪い返されることなく、アブラムは旅を再開し、彼が祭壇を築いて最初に主の御名を呼んだ場所、神様を礼拝した場所に戻ってきました。


 神様を礼拝する場所に戻ってきたのは、アブラム自身が選び取って、まずここに帰ろうと考えたからかもしれません。自分は神様に導かれて旅を始めたのだから、その旅の原点に帰って自分を見つめ直そうと考え、自分が築いた礼拝の祭壇の場所に戻ってきたのだと思います。私は、何かをするために部屋の中を移動して、目的の場所に到着したら、何をするために移動してきたのか忘れてしまった、ということがときどきあります。何をするのか思い出すために、来た道を逆戻りして、本来の目的を思い出そうということなのですが、もしアブラムが自分で考えて原点に戻ったのなら、それと同じことだと思います(エジプトから直接カナンに戻らずネゲブ地方を経由している)。

 一方で私は、神様がアブラムを導いてエジプトから連れ出し、旅の原点に連れてこられたのだろうと思います。アブラムは自分の知恵で失敗して、きっとおおいに自信を失っていたからです。アブラムが自分の意志で来た道を辿ったのではなく、神様がアブラムが歩んだ道を振り返りつつ、原点にまで導かれたのでしょう。


豊かさが起こす争い

 さて、エジプトから豊かな財産を携えて原点に帰ってきたアブラムですが、今度はその豊かさゆえの危機に直面します。

 アブラムの甥であるロトも、エジプトまでの旅に同行し、そしてエジプトから帰ってくる道のりをも共に旅していました。エジプトのファラオからたくさんの財産を贈られたのは、ロトも同じであったようです。これが元となって、問題が生じてしまいました。その問題とは、13章5〜7節にある通りです。「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた(13:5-7)」。

 この旅において、アブラムたちはどこまでも異邦人、仮住まいの旅人です。「そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた(7b節)」とあるとおり、旅で滞在する土地には別の民族が住んでおり、彼らが天幕を広げて生活を営める場所は限られていました。そのため、なおのこと争いを続けるわけにはいきませんでした。カナン人やペリジ人、つまり神様を知らない人々の前で争いを続けることは、そこに共同体の弱さ・脆さを見せつけることになるからです。そればかりか、異邦人たちに主なる神様なんて大したことないと思わせることになりかねないのです。

弱さから出た提案
 このような危機に直面したアブラムは、これまで旅を共にしてきた甥と、行く道を別れることを提案します。さらには、年長者の自分から行き先を決めるのではなく、先に甥のロトに選ばせ、自分はその反対に行こうという提案をしました。ロトは自分にとっての利益をもたらすものは何かという考えに基づいて、よく潤っている土地を選択し、アブラムは甥とは反対の道を行くという選択をしました。

 ここでのアブラムの提案は、確固たる神様への信頼があり、謙遜で、信仰の父として呼ばれるにふさわしいと言えるでしょう。年長者の自分よりも、甥が好きな土地を選べるようにさせ、自分の進む道は神様に委ねたからです。
しかしここには、もう一つの見方があります。このときのアブラムの選択は、彼の弱さゆえの決断の放棄とであるという見方です。飢饉に直面したとき、神様に信頼するよりも自分で自分の身を守ろうとしたアブラムは、今度は自分の行く道を年下の甥に委ねるという弱さを発揮したということです。エジプトでの出来事のあと、彼は自信を失ったままだったのかもしれません。そう考えますと、甥のロトは自分と家族のため、また自分と共に歩む者のために、最善と思われる道を決断したと言えます。人の目によく潤っていて、自分たちが路頭に迷うことのなさそうな、そういう道を選び取ったのです。年長者のアブラムに対して遠慮がないとも言えますが、でも人として当たり前の判断をしたのです。もし創世記がイスラエルの歴史を残すためだけの書物であるなら、むしろロトのほうが人間的に優れた家長としてさえ描かれるかもしれません。しかしここで揺るがないことは、どのような弱さを持っていようが、聖書はアブラムをイスラエルの歴史の始まりとして、また信仰の父として語っているということなのです。そのように神様がアブラムを選んだからです。

 アブラムは、ネゲブ地方で飢饉に遭い、自分の知恵を頼りにエジプトに逃れることを選びました。そして、そこでなんとか生き残り、かつ自分に利益をもたらすために妻を妹と偽りました。危機に直面したときこそ、その人の生き方が問われるし、弱い部分が表にあらわれます。アブラムや私たちにおいては、危機に直面したときに、いかに神様に委ね、信仰に立ち続けるかということであろうと思います。エジプトでの出来事を通して、アブラムは劇的に回心して、信仰の父としてふさわしい姿を見せたのかもしれません。もうあのような失敗はしない、自分の行く道は、自分の知恵によって定めるのではなくて、いつも神様に委ねて進んでいくのだと決意した、それが13章のアブラムの姿であると言えるでしょう。しかし一方で、私たちの弱さは簡単に変わるものではないこともまた、事実であろうと思います。

 ロトが去っていたあと、アブラムはきっと自分の弱さに打ちひしがれていたでしょう。これが神様に示された道だ、さあ行こう、と肚を括って前に進んでいくよりも、自分のしたことに嘆いていたかもしれません。もしかしたら、アブラムの家畜を飼う人々からは、なぜロトにあんないい土地を譲ったんですか、年長者のあなたが先に選べばよかったじゃないですかと責められていたかもしれません。そうなったらいよいよ自分の弱さばかりを見てしまいます。自分の弱さと罪に打ちひしがれ、自信をなくして下を向いていたであろうアブラムに、神様は「さあ、目を上げなさい」と語りかけます。

(結び) さあ、目を上げなさい 
 ロトとアブラムが道を分かつ場面には、 「目を上げて」という言葉が2回出てきます。1回目の「目を上げて」は、ロトがアブラムに促されて進む道を選ぶときでした。そして彼が目を上げて見た「よく潤っていた」土地は、自分が求めるもの、つまり自分に利益を与えるのはどこかという視点で見つけたものでした。2回目の「目を上げて」は、神様がアブラムに「目を上げて・・・見渡しなさい(14b節)」と言われたときでした。アブラムの目に映ったのは、神様から与えられる土地、神様からいただく恵みでした。アブラムは、神様から見える限りの土地をあなたとあなたの子孫に永久に与えるという約束を聞き、ヘブロンという土地にあるマムレの樫の木のところに来て、そこにしばらく留まりました。そしてそこでも神様を礼拝して生活したのです。

 このマムレの樫の木というのは、アブラムの人生にとって象徴的な場所であると思います。マムレの樫の木のそばに住んでいるときに、神様はアブラムに星空を見せて、あなたの子孫はこの星の数のようになると約束されました。また、アブラムのもとに訪ねてきた三人の御使をもてなしたのも、アブラムの息子イサクの誕生が告げられたのも、このマムレの樫の木のそばにいるときでした。そして、彼の妻サライを葬るために、アブラムはマムレの樫の木の近くに土地を買い、それがアブラムがその生涯で与えられた唯一の土地となりました。弱さに打ちひしがれていたアブラムに、神様が約束された土地のほんの一部が与えられ、アブラムは地上の歩みを終えました。

 アブラムに与えられたのは本当にほんの一部の土地でした。しかし確かに、ほんの一部の小さなところから、神様の約束は実現されていったのです。その約束の実現は、目を上げて、私の与えるものを見なさい、という神様の言葉を受け取らなければ、見ることのできないものでした。このあとのアブラムの姿は、劇的に変わっていつも信仰の父たる者の姿だった、とは言えません。サライとの間にイサクが与えられることを神様から告げられたアブラムは、そんなこと起こるわけないと信じず、神様にひれ伏しながらも笑っていました。またゲラルという場所に滞在したときにも、サライのことを妹と偽りました。このように、アブラムは変わらず弱さを持っていました。しかしそれ以上に、神様の約束は変わることなく、アブラムを用いてご自分の約束を実現されていったのです。「目を上げて」神様の約束を見る、とは、私たちの弱さ、罪の姿を丸ごと受けとめ、深く憐れみ、深く愛する神様のご計画が、自分のためのものだと受けとることなのです。

 長い間、私はアブラムあらためアブラハムという人は、信仰的な失敗のない人というイメージを持っていました。「信仰の父」と呼ばれるにふさわしい部分だけを蓄積させていったからだと思います。でも創世記をじっくり読み、アブラムの人生の旅路を味わえば味わうほど、彼は小心者で、自分に自信がなくて、信仰が問われる場面では神様から離れる選択をしてしまう、私たちの姿を重ね合わせられる人だなあと思わされます。そういうアブラムが、また私たちが、神様よりも自分の知恵や利益を優先させて失敗しても、神様はあきらめない、見放さない、神様と共に歩む道へと再び導いてくださる。そのことをアブラムの旅路を追う私たちに語られているのです。アブラムが「信仰の父」と呼ばれるのは、信仰的失敗によって何度落ち込もうとも、そのたびに神様の語りかけに応えて、その約束の実現を信じながら旅を続けたことにあるのだと思います。


 神様が信仰の父アブラムになさった約束は、私たちにまで広がり、イエスさまの十字架と復活の出来事を通して、すでに成就されました。この救いの約束の実現を信仰によって受け取りましょう。そして目を上げて、神の国で生きる永遠の命が与えられるという、さらなる約束の実現を待ち望みたいと願います。私たちが先のことを案じても、できることは限りがあります。しかし神様はそのような私たちのために、永遠の希望を約束してくださっています。どんなに私たちが弱く、罪に生きる愚かな姿をさらそうとも、神様は約束を放棄されません。それどころか、そのような私たちのために折に触れて語りかけてくださるのです。「さあ、目を上げて、私の約束を見なさい」。私たちは、順調なときも、危機に直面して自分の弱さに打ちひしがれるときも、目を上げて、神様の約束を希望にして歩んでいくのです。

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