2025年2月2日日曜日

「恵みを与えようとして待っておられる神」

2025年2月2日 主日礼拝説教

聖書:創世記 28:10‐22

兄から逃れて
 今日の第一朗読には、ヤコブという人物が登場しました。ヤコブはアブラハムの孫に当たります。のちに「イスラエル」と名前を変えられます。イスラエル十二部族の先祖となる人物です。

 ヤコブはこの時、彼が元々住んでいたベエルシェバから母リベカの故郷であるハランに向かって旅をしていました。いや逃亡していたという方が正確でしょう。彼がハランに向かって長い旅をしていたのは、兄エサウに命を狙われていたからです。それはなぜなのか。事の詳細は創世記25章後半から記されています。その物語はそれぞれお読みいただくとしまして、ざっくりと要約すると、こういう話です。

 エサウとヤコブは双子の兄弟でした。エサウの方がわずかばかり早く生まれてきました。ヤコブは兄のかかとをつかんで生まれてきたという話が25章に出てきます。「先に行かしてなるものか~」と、自分が長男になることへの執念を露わにしながら生まれてきたのが、この弟のヤコブでした。

 さて、長男には長子としての特権がありました。それはいつの時代であっても珍しいことではありません。また長子が受け継ぐ神の祝福がありました。かかとをつかんで生まれてきた弟のヤコブには、それらが兄エサウに行くことが、我慢なりませんでした。エサウに与えられている特権をなんとしても奪ってやりたいと虎視眈々とその機会をうかがっていたのでした。そして、途中の話は割愛しますが、結局、ヤコブは策略をもって、兄エサウから長子の特権を奪い取ることに成功したのです。また、母親のリベカと組んで、年老いて盲目となった父イサクを騙して、本当ならばエサウに与えられるはずの長子の祝福を奪い取ったのでした。さて、どのようにして奪ったのか、まだ読んだことのない人は、ぜひ25章からの話を読んでみてください。

 とにかく、ヤコブは、長年望み続けていたものを得たのです。人の欲に付け込んだだまし討ちであっても、父親の盲目を利用した汚い手段であっても、その方法はどうであれ、望んでいたものを得たのです。しかし、これも世の常ではありますが、望みがかなうことはかならずしもその人に幸福をもたらすとは限りません。彼が、自分の望みを遂げたことの、その代償は大きかった。あまりにも大きかったのです。

 ヤコブは結局、兄のエサウに憎まれて、命を狙われることとなりました。兄エサウは、もともと長子であることに、それほどこだわっているようには見えなかったのです。ですから、その彼から、そこまで憎まれるとは、思っていなかったのかもしれません。しかし、今や兄は本気で自分を殺そうと企んでいる!その殺意を知ったヤコブは、母親の勧めによって、故郷を離れることとなりました。愛する母親からも離れハランに向かうことになったのです。

 さて、今日お読みしたのは、そのような事情で兄から殺されそうになったヤコブが、とぼとぼと孤独な旅をしていた途上での出来事です。そして、ヤコブはそのような旅の途上で神に出会うことになるのです。いや、神が先回りして彼を待っておられたという方が正確かもしれません。ヤコブは神に出会うべくして出会ったのです。そして、そこは暖かい宿があるような場所ではなく、神が待っておられたのは、そして出会いの場所となったのは、石を枕にして寝なくてはならないような荒れ野でありました。

天からの階段
 10節以下をお読みします。「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」(10-11節)。

 彼は一つの場所にさしかかりました。その場所は後にヤコブによってベテルと名付けられます。19節には、「ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた」とあります。しかし、ここでヤコブは明らかに野宿をしているのであって、この物語においては、まだその場所に町は存在していません。当時そこはまだ荒れ野だったのです。

 日が沈みました。あたりを暗闇が覆います。彼はそこで一夜を過ごさねばなりません。彼はその場所にあった石を枕にして身を横たえました。実に惨めです。まさかこのような夜が彼の人生におとずれようとは、夢にも思わなかったに違いありません。なぜこんなことになってしまったのか。過去を振り返れば、後悔にかられたことでしょう。未来を思うなら、不安と恐れがつのったことでしょう。かつては、自分の手で幸福を勝ち取り、未来を切り開こうとしてきた彼でした。しかし、今やどこにも希望を見出すことができません。彼を包んでいる闇夜は、彼の人生そのものを象徴しているかのようでした。

 しかし、物語はそこで終わりません。そのような石を枕にして身を横たえている荒れ野こそが、ヤコブにとっては神との出会いの場となったのです。石を枕にして寝ざるを得ないような惨めな夜こそが、まさにヤコブにとっては神を知ることになる夜だったのだと、聖書は教えているのです。

 では、ヤコブはどのように神と出会い、神を知ったのでしょうか。続く12節をお読みします。「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(12節)。

 奇妙な表現だと思いませんか。天使が上ったり下ったりしていた」という部分ではありません。天使は上ったり下ったりしていていいのです。そうではなく、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており」という表現す。私たちならば、「先端が天まで達する階段が《天に向かって伸びており》」と表現するのでしょう。しかし、階段は確かに「地に向かって」伸びていたのです。実際原文でもそのような表現が使われているのです。

 「伸びている」と訳されていますが、直訳するとそこには「立てられている」という言葉が使われています。誰が立てたのでしょう。それは神が立てたのです。だから「天に向かって」ではなくて「地に向かって」なのです。方向はあくまでも《天から地に向かって》なのです。

 小さな違いのように見えますが、これは極めて重要な違いなのです。彼が《地から天に向かう》階段の夢を見たとしても、それは救いにはならないからです。なぜなら、ここで石を枕にしているのは、天に向かって上って行くことはおろか、天に顔を向けることすらできない人間だからです。それは何もヤコブだけではありません。私たちも皆同じです。本当ならば、その罪のゆえに、天に近づくことはもとより、天に顔を向けることすらできない――それが私たち人間というものです。ですから、地から天に向かって伸びている階段を示されても人は救われないのです。

 しかし、神がヤコブに見せてくださった夢は違いました。《神が》階段を《天から》ヤコブのいる《地の方向に》伸ばしていてくださったのです。しかも、「救われたかったら天にまで昇って来い」と言われたのではありません。既にそこには神の御使いたちが上ったり下ったりしていたのです。つまり、神の恵みの御業は天の高いところに留まっているのではなくて、神の恵みの御業は、ヤコブのいる地の上まで届いている、罪深いヤコブのところにまで届いているということです。それがヤコブの見た夢だったのです。神がそのような夢を見せてくださったのです。

見よ、わたしはあなたと共にいる
 そして、ヤコブはまことに驚くべき神の言葉を耳にしたのでした。13節以下を御覧ください。「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない』」(13‐15節)。

 声は天の高いところから響いてきたのではありません。なんと、主はヤコブの傍らにおられたのです。まことに神から見捨てられても仕方がないようなヤコブの人生の直中に、荒れ野の夜に象徴されるような彼の人生のただ中に、主は一緒に立っておられたのです。そして、「見よ、わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを見捨てない」と言ってくださったのです。

 そこでヤコブは目を覚まします。彼は周りを見回します。何も変わっていません。彼を取り巻く闇は変わっていません。彼の置かれている状況は何も変わっていないのです。しかし、石を枕にしていたその場所――悲しみと恐れに満ちていたはずのその場所の意味が全く変わってしまいました。天からの階段が地に向かって伸ばされていること、そして主が傍らに立ってくださったことを知った時に、その場所の意味が変わってしまったのです。

 ヤコブはこう言っています。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と。そして、さらに恐れおののいてこう言ったのです。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(17節)。石を枕にしていた場所は、相変わらず荒れ野であるにもかかわらず、そこは神の家となり天の門となったのです。

 さて、皆さん、天から地に向かって伸ばされている階段をヤコブに見せてくださった神は、実際に、この世界に向けて、天から階段を伸ばしてくださったのです。どのようにして?神の独り子、イエス・キリストをこの世に遣わされることによってです。私たちが見ているこの世界は相変わらず荒れ野です。しかし、そのただ中に神が独り子をお遣わしくださいました。まさに天から階段が伸ばされて、荒れ野の意味が全く変わってしまったように、この世界の意味が変わってしまったのです。

 この世界は、私たちの人生は、主と共に生きる場となりました。そして、私たちが神の霊によって集められて形作られる教会は、まさに荒れ野のただ中に存在するベテル、神の家としてこの地上に置かれているのです。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった!」とヤコブは言いました。そうです、私たちも知らなかった。しかし、今や私たちは知っています。主は恵みを与えようと、荒れ野のただ中にあるベテルで、待っていてくださる、と。

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