創世記18:20‐33
わたしは降って行き、見て確かめよう
今日の聖書箇所には「ソドムとゴモラ」という二つの町の名前が出てきます。神に滅ぼされた町として知られる二つの町です。そのような聖書箇所ですので、ここを読むに当たりましては、やはり「神の裁き」について考えることは避けて通れません。そこでまず、主がこの二つの町について語っている言葉に耳を傾けることにしましょう。20節を御覧ください。「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう』」(18:20)。
ここは注意深く読まねばなりません。ソドムとゴモラの悪に対する神の判断が先にあるのではありません。人間の判断が先にあるのです。神の裁きが下される前に、人間が神に訴える叫びがあるのです。原文では「ソドムとゴモラの叫び」となっていますので、外からの叫びではなく、内部からの叫びと言ってよいでしょう。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」と訴える内部の人間の叫びがあるゆえに、主はその現実が叫びの通りであるかどうかを確認しに降りてくる。そのような書き方がされているのです。
このように人間の訴える声の方が先にあるという記述は、私たちの経験とも符合していると言えます。実際そうではありませんか。私たちは神によって指摘されるまでもなく、この人間世界に罪があり悪があることは分かっているのです。私たち自身がこの世の悪、隣人の悪によって不当に苦しめられているならば、なおさらその悪の存在ははっきりと認識できるのでしょう。実際、私たちは自分に対するものでなくても、悪が放置されることを望みません。この世の悪が正しく裁かれることを願うのでしょう。
確かに多くの人は「神の裁き」という言葉を好まないかもしれません。「最後の審判」という言葉が大好きであるという人にお会いしたことはありません。しかし、もう一方において、人は正しい裁きを求めているものです。神が裁く前に、この世の悪を訴え、正しい裁きを求める人間の叫びがあるのです。
しかし、神は人間の訴えに従ってこの世を裁くのではありません。事実に基づいて裁かれるのです。ですから、事実を調べに降りてこられるのです。ここではそのような書き方がされております。そのように、決定的に重要なのは、《神が》どうご覧になるのか、ということなのです。
そうでありますならば、他者の悪を訴えて叫んでいる時、降って来られた神の目には別の事実が目に留まっているかもしれません。叫んでいる人は自らを正しい人の側に置いて叫んでいるのでしょう。しかし、そこではその人自身の罪という事実が目に留まっているかもしれません。いずれにせよ、審判はすべての事実を《神が》どう判断されるかに基づいて下されるのです。
正しい者がいるならば滅ぼさない
しかし、話はそこで終わりません。ここには実に奇妙なことが書かれています。しかも、そのためにかなりのスペースが割かれております。アブラハムと主なる神との間に、あたかも《値引き交渉》のようなやりとりが展開するのです。アブラハムは、主なる神から「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」(26節)という言葉を引き出します。そして、ついにその五十人を十人にまで引き下げることに成功するのです。主は「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(32節)と言われるのです。
このやりとりの内容については後で触れるとしまして、そもそもどうしてこのような対話となったのかを考えてみましょう。それは言うまでもなく、ソドムとゴモラに対する神の裁きの計画をアブラハムが知ったからです。より正確に言いますならば、主なる神が自らアブラハムに打ち明けたのです。17節にこう書かれています。「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか』」。主なる神が明かしてしまったためにこの《値引き交渉》になったのですから、そもそもその種を蒔いたのは主なる神御自身に他なりません。
考えてみますと、このように神が誰かに御自分の裁きの計画を話される場面は、聖書の中に一つや二つではありません。有名なノアの箱舟の話もそうでしょう。神は御自分の計画をノアに事前に打ち明けるのです。また、聖書に数多く登場する「預言者」という存在もまた、その事実を示しています。神は預言者を通して裁きの計画を人々に語り聞かせるのです。
もし悪を行う者を滅ぼすことが本来の意図であり神の願いであるならば、神は黙ってそれを行えばよいはずではありませんか。しかし、神はそうなさらない。要するに、ここから明らかなことは、罪を裁いて滅ぼしてしまうことが神の本来の意図であり願いではない、ということなのです。
そのような神の御心は、このアブラハムとのやりとりの中にも良く現れております。アブラハムが最初に問うたのは、「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(23節)ということでした。その町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼされるのかと問うたのです。しかし、アブラハムはさらにこう問いかけました。「その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」明らかにここには論理の飛躍があります。正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすことが理不尽ならば、正しい者だけを救えばそれで良いはずです。なにも町全体をお赦しになる必要はありません。しかし、神はこの飛躍した論理を受けとめて、こう答えられるのです。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、《町全部を赦そう》」(26節)。
そこから、先に触れましたように、アブラハムの交渉が始まります。彼は言いました。「もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか」。すると主は言われます。「もし、四十五人いれば滅ぼさない」。そして、主の言葉は最終的に「その十人のためにわたしは滅ぼさない」というところにまで至ります。そこでこの場面はやや唐突な仕方で閉じられることになります。「主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った」(33節)。
なぜ十人までで話をやめてしまったのでしょう。それは恐らくアブラハムには主の言わんとしていることが分かったからだと思います。これを読んでいる私たちの目にも明らかです。この対話を読んで「ああ九人ではだめなのだな」と考える人はよほど鈍い人です。主は人数を問題にしているのではないのです。正しい者が本当に存在するか否かを問題にしているのです。ソドムとゴモラの罪を覆い、滅びから救うことができるほどに正しい人間がいるかどうかを問題にしているのです。ですから、究極的には《一人でも》本当に正しい人がいるならば、神は「町全部を赦そう」と言われるのです。
ただ一人の正しい御方
そして、そのような究極的な神の赦しの御心は、後に預言者を通して明らかにされることになります。イザヤ書53章をお開きください。(1149ページ)。52章13節から始まるこの箇所は「苦難の僕の歌」として知られている箇所です。本当はこの全体をぜひじっくりと読みたいところですが、ここでは最後の部分だけをお読みいたします。この歌は次のような主の言葉によって締めくくられています。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」(イザヤ53・11後半‐12)。
細かい話になりますが、今読みました最初の部分は「義なるわが僕は…」と訳すことができる言葉でありまして、そのように訳している聖書も少なくありません。私もその方が良いと思います。ここには一人の正しい人が出てくるのです。この人は、たった一人で多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをするのです。そして、彼のゆえに多くの人がその罪を赦され、正しい者とされるのです。主なる神は、この一人の正しい人のゆえに、多くの人を赦される。それが神の御心なのです。
しかし、問題はあのアブラハムと神との対話の場面と同じです。そのような正しい人が本当にいるのかどうか、ということです。人数の問題ではないのです。たった一人でもそのような正しい人がいるかどうかなのです。果たして、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをすることのできる正しい人が本当にいるのでしょうか。この私やあなたの過ちを担い、背いた私やあなたのためにも執り成してくれる正しい人が本当にいるのでしょうか。
その切実な問いに対して、聖書は「いる。確かにいるのだ」と答えているのです。そして、一人の御方を指し示すのです。十字架の上ですべての人の罪を担い、「父よ、彼らをお赦しください」と執り成し祈られる一人の正しい御方、イエス・キリストを指し示しているのです。
その正しい一人のお方がおられなかったら、罪ある私たちのいかなる祈りも意味を持たないでしょう。私たち自身も神の正しい裁きのもとにあるのですから。何を祈ろうが、私たち自身、滅びを宣告されて終わるだけでしょう。ただ一人の正しいお方がおられなかったら、罪あるこの世についてのいかなる祈りも、他者のためにささげるいかなる祈りも意味を持たないでしょう。罪あるこの世界は、滅びを宣告されて終わるだけの話です。
しかし、聖書は「そうではない」と語るのです。この世界はキリストが来られた世界です。唯一の正しいお方が、すべての罪を担って十字架におかかりくださった世界です。だから、私たち自身が祈ることには意味がある。自分のためだけでなく、罪に満ちたこの世界のために祈ることにも意味がある。その意味において、ソドムとゴモラのために神の前に立ち続け、赦しを求めたあのアブラハムの姿は私たちのあるべき姿でもあります。私たちは、このキリストのゆえに、私たちのために執り成し祈るキリストと一つになって、キリストの体として、私たちもまた他者のために、この世界のために祈ることが許されているのです。
(祈り)