創世記11:1‐9
本日の第一朗読では「バベルの塔の物語」が読まれました。物語に登場するのはシンアルの平野、すなわちバビロニアに移住した人々です。彼らは言いました。「れんがを作り、それをよく焼こう」。彼らは石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いるようになりました。新しく手に入れた技術をもって、彼らは一つのことを企てます。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(4節)と。
神の望まれない一致
彼らは高い塔のある町を建てようとした。何のためでしょう。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と彼らは言っています。「有名になろう」。しかし、ここで彼らが意味しているのは、ただ多くの人に知られることでも賞賛されることでもありません。「有名になろう」と訳されていますが、原文では「我々のために名を造ろう」と書かれているのです。
つまり彼らは巨大な塔を建て上げているのですが、それは彼らの名前を偉大なものとして強大ものとして建て上げることを意味していたのです。それを聞いたら人々が恐れをなす大いなる名、それを聞いたら人々が従わざるを得ないような偉大なる名。彼らはそのような名を持つ者となることを求めたのです。それはすなわち、支配される者ではなく、支配する者となることを意味しました。そのために彼らは、自らの圧倒的な力を示す巨大な塔を建てようとしていたのです。
しかし、そのように自分たちの力を誇示し、大いなる名を獲得し、支配する側になろうとしていたのは、彼らの恐れのゆえであったと聖書は伝えているのです。彼らは何と言っていますか。「そして、全地に散らされることのないようにしよう」。
彼らの思いは分からないでもありません。力がものを言う社会においては、弱い集団は常に強い集団によって脅かされています。相手に太刀打ちできなければ逃げるしかありません。その結果住んでいた場所を追われる、あるいは散らされるということも起こってまいります。そのような実例を私たちは旧約聖書の中に沢山見いだすことができます。いや、それは古代社会だけでなく、現代にも様々な形で起こっていることなのでしょう。
実際、彼らは「東の方から移動してきた人々」であったと書かれています。巨大な塔を建てようとしているのですから、かなりの人数からなる集団だったと思われます。そのような大きな集団が一斉に移住せざるを得なかったとするならば、一つ考えられるのは、他の集団によって追いやられたということです。二度と追いやられないためには、そして散らされないためには、強くなくてはならない。支配する側にならなくてはならない。自分たちの優位性を、実力をもって示さなくてはなりません。
そのために、彼らは一致団結したのです。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」。さあ、周囲の人々が見上げるような、天まで届く塔のある町を建てよう。周囲の人々が脅威を覚えるような、天まで届く塔のある町を建てよう。その目的のために、彼らが一丸となって働いたであろうことは想像できます。
そのように、偉大なる者、力ある者、支配する側となることへの願望は、人々を一致団結させる力となります。その背後に恐れや不安があるなら、なおさらです。これを実現しなかったら、私たちはまた追いやられるかもしれない。私たちは散らされるかもしれない。人々は恐れによっても一致団結するのです。さらに、そこに集団移住を余儀なくされた者の怒りや憎しみが加わったらどうでしょう。怒りと憎しみによっても人々は一致団結するのです。
そのように、彼らは一致団結して、目標に向かってまっしぐらに進んでいました。もはや彼らの企てを何者も妨げることはできません。しかし、そのような彼らの企ては、結局失敗に終わったと聖書は伝えているのです。周囲の人々の圧力によって計画が挫折したのではありません。彼らが弱いために周りの民によって追い散らされた、というわけでもありません。なんとその原因は彼らの「言葉」が混乱し、互いに言葉が通じなくなったためだと言うのです。この計画は外圧によってではなく、内部から崩壊したのです。そして、そもそも散らされないための計画であったはずなのに、結局彼らは散らされることになりました。
そして、最も重要なことは、この「混乱」が他ならぬ神によってもたらされたと語られていることです。5節以下を御覧ください。「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」(5‐8節)。
神様が自らこの計画を妨げられました。これは何を意味するのでしょう。神はこのような一致団結を喜ばれない、ということです。偉大なる者、力ある者、支配する者となるために一致団結することを、神様は喜ばれない。恐れに駆り立てられて一致団結すること、怒りや憎しみに動かされて一致団結することを、神様は喜ばれない。そのような一致団結が、決して周りに祝福をもたらすことはないからでしょう。そのように一つとなった集団は、周りを不幸にし、苦しめる、呪いの源にしかならないのです。
神様はそのような一致団結を喜ばれません。ですから、神様は自ら妨害をなさいます。実際、人間から出た一致団結が、外からの圧力によってではなく、しばしば内部から崩壊することを私たちは知っています。その崩壊は言葉の混乱によって起こります。互いに言葉が通じなくなるのです。
今日お読みした物語では、彼らが互いに聞き分けられない《異なる言語》を話すようになった、という話になっています。しかし、言葉が通じなくなるのは、必ずしも異なる言語を話す場合だけではありません。同じ言語を話しながらでも意思の疎通が不可能になることはいくらでもあります。そこに誤解が生じます。混乱が生じます。そして、互いに袂を分かち、散っていくことになります。これを聖書は、「主は彼らをそこから全地に散らされた」と表現するのです。主がなされたのだ、と。
神の望まれる一致
しかし、話はそこで終わりません。神様が本当に望んでいることは、混乱させることでも、散らすことでもないのです。
私たちは今日、もう一つの聖書箇所をお読みしました。今から約二千年前の五旬祭における出来事を伝えている聖書箇所です。こう書かれています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:1‐4)。
ここでも、あのバベルの塔の出来事と同じように彼らは突然、異なった言葉を話し始めます。しかし、彼らはバラバラにはなりません。異なる言葉を話しながら、同じ神の霊に満たされて一つとされているのです。彼らは、いかなる意味で一つとされていたのでしょうか。それは、彼らが異なる国々の言葉で、何を語っていたかを聞けば分かります。
その後の9節以下には、これを聞いた人々の驚嘆の言葉がこう記されているのです。「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(同9‐11節)。
彼らは皆、神の偉大な業を語っていたのです。それは神の救いの業です。キリストによって実現してくださった救いの御業です。そのような神の救いの御業を語ることにおいて、彼らは一つとなっていたのです。
彼らが異なる国々の言葉で語っていたのは、一つのしるしでもありました。教会はやがて、あらゆる国々のあらゆる人々の中に入っていって、それぞれの言葉で、神の救いの御業を伝えて仕えるようになる。人々の救いのために仕えるようになる。そのことを指し示すしるしだったのです。
この教会の誕生の姿にこそ、神が望んでおられる一致団結がどのようなものであるかを見ることができます。私たちは恐れに駆り立てられて一つになるのではありません。怒りや憎しみによって一つになるのではありません。そうではなく、大いなる神の救いの御業を語る者として、一つになるのです。共に神の恵みを分かち合い、神への感謝と神への信頼に生きることによって一つとなるのです。
私たちは力ある者となって他者を支配するために一つになるのではありません。支配するためではなく、仕えるために一つになるのです。力を誇示するための巨大なバベルの塔の周りで一つになるのではありません。そうではなく、仕えるために来てくださったキリスト、十字架の低きにまで降ってくださったキリストの周りで一つになるのです。私たちは自分たちのために一つになるのではありません。そうではなく、この世に仕えるために一つとなるのです。
そのようにキリストの周りで私たちを一つにしてくださるのは神の霊、聖霊です。私たちが今、聖餐卓のまわりに集められているのは、聖霊が確かに私たちの内に働いていてくださる目に見えるしるしです。
今日は聖霊降臨祭です。かつてあの弟子たちに降った聖霊は、今も地上において私たちの内に働いておられます。神をほめたたえる者として、私たちを本当の意味で一つにしてくださる聖霊の御業を、聖霊の満たしを、これからも切に求め続けましょう。
(祈り)