2025/3/16 主日礼拝説教
聖書:イザヤ書 35:1-10
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る
「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ」(1節)。今日の第一朗読でそのような言葉が読まれました。
荒れ野や砂漠は、突然荒れ野や砂漠になったわけではありません。荒れ野や砂漠であり続けた過去があり、そして現在があるのです。この世の常識から言えば、荒れ野の過去と現在を考えるなら、喜び躍るべき未来があるとは思えません。砂漠の過去と現在を考えるなら、花が咲き乱れている未来があるとは思えません。それがこの世の常識というものです。
しかし、ここに全く異なる見方でこの世界を見ている人がいます。人は彼を預言者と呼びます。この人は、過去は砂漠であり現在も砂漠であったとしても、未来に砂漠を見てはいないのです。預言者はそこに、バラの花が咲き乱れている未来を見ているのです。
さらに彼は言葉を続けます。「花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる」(2節)。
レバノンはレバノン杉で有名な森林を有する地域です。砂漠にレバノン杉は絶対に生えません。過去に生えたことはないし、現在も生えてはいないのです。しかし、この人は砂漠がレバノン杉の森林になった姿を見ているのです。「砂漠はレバノンの栄光を与えられる」と。
そのように彼は、単純に過去と現在から未来を予測しようとはしないのです。それはなぜなのか。彼が目を向けているのは荒れ野や砂漠だけではないからです。また、そこで人間が何を為し得るかということでもないからです。この人は信仰をもって神に目を向けているのです。神がなさることに目を向けているのです。
荒れ野が喜び躍り、砂漠に花が咲き乱れるとするならば、それは神がなさることです。砂漠がレバノン杉の森林になるとするならば、それは神がなさることです。それゆえに、そこで人々が見るのは人間の栄光ではありません。主の栄光なのです。「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と彼は言うのです。
人が荒れ野の過去を思い、荒れ野の現在を思い、そして、そこで自分の手を見つめている限り、そこには希望はありません。人間の為し得るところだけを見つめている限り、荒れ野は未来も荒れ野なのでしょう。しかし、預言者は本当に求めるべきことを語るのです。それは人々が主の栄光を見ることなのです。私たちの神の輝きを見ることなのです。
見よ、あなたたちの神を
さて、預言者がこのように語るのには、実はそれなりの理由がありました。そこには「弱った手」を持つ人々がいたからです。本当はなさなくてはならないことがあるのに、できなくなっている人々がいたからです。そこにはまた、「よろめく膝」を持つ人々がいたのです。本当は立ち上がって前に進んでいかなくてはならないのに、それができなくなっている人々がいたのです。そして、そこには「心おののく人々」がいたのです。本当は心を向けなくてはならないことがあるのに、恐れと思い煩いで心がいっぱいになっている人々がいたのです。
だからこそ、彼らに向かって預言者は語るのです。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ」と。さらに彼は言います。「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」(3‐4節)。
弱った手。よろめく膝。心おののく人々。具体的にどのような状況がそこにあるのか、この預言の言葉がどのような時代背景において誰に対して語られたのかは定かではありません。いや、むしろあえて特定の時代状況や人々と結びつかないような書き方がされているとも言えます。実際、弱った手やよろめく膝、心おののく人々の存在は、ある特定の時代背景に限定されているわけではありませんから。それは今日、ここにいる私たちの話でもあるのでしょう。
まさに荒れ野としか言いようのない過去があり、現在も変わらず荒れ野であるときに、人はもはや何も未来に期待することができなくなってしまうのです。もはやそこには待ち望むべき何ものもない。本当は為すべきことがあるのに手は弱り、本当は進まなくてはならないのに膝はよろめく。そのようなことが起こるのです。
だからこそ預言者は言うのです。「見よ、あなたたちの神を」。そうです、だからこそ目を向けなくてはならない御方がいるのです。その御方は他ならぬあなたたちの神だと預言者は言うのです。「見よ、あなたたちの神を」。それは信仰への招きです。神が来られるのです。私たちの目には永遠に荒れ野としか思えないところに神が入って来られるのです。そして、神が行動を起こされるのです。「敵を打ち、悪に報いる神が来られる」とはそういうことです。
ここもまた、あえて特定の歴史的状況とは切り離して書かれています。敵が誰であるかは語られていません。「悪」が具体的にどのような悪なのかは語られていません。それは大して重要なことではありませんから。それがいつの時代であれ、どのような状況であれ、苦しめる敵が何であれ、苦しめる悪がなんであれ、大切なことは「神は来て、あなたたちを救われる」という信仰だからです。
そのとき
「見よ、あなたたちの神を」。神に目を向けるとき、そこには異なる未来が見えてきます。神は預言者を通して「そのとき」について語ってくださるのです。神が来て、救ってくださる「そのとき」について語ってくださるのです。私たちの想像を超えた仕方で神が救ってくださる「そのとき」について語ってくださるのです。
彼はこう続けます。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる」(5‐7節)。
神様は預言者を通して、実に様々な表現を用いて、「そのとき」について語られます。それらの表現は全て、神様御自身が、神様にしかできないことを、神様の仕方によって実現することを言っているのです。「神は来て、あなたたちを救われる」とはこういうことなのです。
しかし、あくまで神様は「そのとき」としか言われません。主は「いつであるか」については語られないのです。明日であるとも十年後であるとも千年後であるとも語られない。あくまでも「そのとき」です。その意味では、「そのとき」というのは「いつか必ず」と言っているのに近いと言えます。あるいは「最終的には」と言い換えることができるかもしれません。その意味では完全に実現するのは終末においてだとも言えます。
そして、そこに語られているのは、荒れ野に水が湧き出ることだけではありません。荒れ地に川が流れるだけではありません。「そこに大路が敷かれる」(8節)と言うのです。大きな道が通る。それは何のための道でしょうか。10節にこう書かれています。「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」(10節)。
私たちの人生には最後まで嘆きと悲しみは残るのでしょう。この世の歴史には最後まで嘆きと悲しみは残るのでしょう。しかし、「そのとき」が来るのです。主に贖われた者たちが本当の喜びと楽しみによって迎えられる「そのとき」が来るのです。嘆きと悲しみが完全に永遠に逃げ去る「そのとき」が来るのです。
ヨハネの黙示録は「そのとき」について次のように描いています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネ黙示録21:3‐4)。
明らかに「そのとき」はまだ来ていません。それは「終わりの日」についての預言です。それはまだ未来に属することです。
しかし、ある時、イエス様がこんなことを言われました。洗礼者ヨハネが二人の弟子たちをイエス様のもとに遣わして、こう尋ねさせた時のことでした。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」するとイエス様は二人にこう答えられたのです。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(ルカ7:22‐23)。
「来るべき方は、あなたでしょうか」。そう、来るべき方は、その御方でした。イエス様の到来において、いったい何が起こっていたのか。メシアの到来において人々は何を見たのか。「そのとき」について語る聖書の言葉が、私たちが今日朗読した聖書の言葉が、生きた現実となっているのを見たのです。主は言われました。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き・・・」と。そうです、それは生きた現実となっているのです。
聖書が語る救いの約束は、私たちにとって待ち望むべき究極の希望です。私たちは「そのとき」を信じて待ち望みます。しかし、同時に、聖書が語る救いの約束を、私たちは生きた現実として味わい始めているのです。そのような信仰の歩みの中において、私たちは今日も再び呼びかけられているのです。「見よ、あなたたちの神を」と。