イザヤ書 61:1-3
私たちが信じている神様は、嘆きを喜びに変えてくださる神様です。本日の第一朗読にそのことが記されていました。今日の説教題はイザヤ書61章3節から取りました。主は灰に代えて冠を与えてくださる。主は嘆きに代えて喜びの香油を与えてくださる。主は暗い心に代えて賛美の衣を与えてくださる。これはまことに、嘆いている人に与えられている喜ばしい神の約束です。
嘆きに代えて喜びの香油を
しかし、この恵みの言葉が向けられている「嘆いている人」とはいかなる人のことでしょうか。彼らは「シオンのゆえに嘆いている人々」と表現されています。彼らは単に災いを嘆いているのではありません。身に降りかかってきた不幸を嘆いているのではありません。彼らはシオンのゆえに、すなわち、エルサレムのゆえに嘆いているのです。
なぜなら、エルサレムがいまだに廃墟だったからです。主が選ばれ、主が礼拝されていた場所が、平和と喜びに満ちているはずの場所が、いまだに荒れ果てているからです。そして、その荒廃をもたらしたのは人間の罪のゆえであり、それは他ならぬ彼らの罪のゆえであることを知っているからです。それゆえに彼らは嘆いているのです。重く暗い心をその内に抱き、嘆いているのです。
この世では、いつも明るく元気である人が好まれます。深刻な顔ばかりしているとネクラと呼ばれて疎まれるかもしれません。この世界や自分自身を見て嘆いているよりは、自分の可能性と人類の可能性を信じて生きていく人――そのような人は「前向きな人」「ポジティヴな人」として賞賛されるのでしょう。
しかし、聖書によるならば、喜びの香油は《嘆きに代えて》与えられるのです。賛美の衣は《暗い心に代えて》与えられるのです。真に嘆くことを知る人だけが、神から来る喜びを知ることになるのです。
聖書は「嘆き」を人生にとって不要な要素とは見ておりません。嘆くことは必要なことなのです。かつて、預言者ヨエルは人々に向かってこう叫びました、「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け』」(ヨエル2:12‐13)。また、新約聖書においては、ヤコブも次のように書いています。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」(ヤコブ4・8‐9)。
実際、私たちの罪と不信仰が、私たちの生活に、あるいは教会に、あるいはこの社会に、この世界に、荒廃をもたらしているのに、もし嘆くことも悲しむことも全くできないとするならば、それは、本当はとても不幸なことなのでしょう。人間の罪と不信仰によって、目の前に荒れ果てている現実があるのに、嘆くことも悲しむこともできないで、ただ自分たちの平安や安泰を望んでいるとするならば、それは、本当はとても不幸なことなのでしょう。その先に天来の喜びが、真の喜びが満ちることはあり得ないからです。主の与えてくださる喜びの香油は、嘆きに代えて与えられるのです。
正義の樫の木と呼ばれる
そこで、私たちはなおしばらく、この《シオンのゆえに嘆いている人々》が意味することについて、御言葉に耳を傾けたいと思います。
主は預言者に聖霊の油を注いで遣わされます。主は良い知らせを伝えさせます。嘆きに代えて喜びの香油を与えるためにです。その知らせが向けられている人々が、1節では様々な言葉をもって表現されています。
良い知らせが伝えられるのは「貧しい人」に対してです。主の癒しに包みこまれるのは「打ち砕かれた心」です。自由と解放が告知されるのは「捕らわれ人」に対してであり、「つながれている人」に対してです。
ここで「貧しい人」と言われているのは、単に経済的に困窮している人のことではありません。旧約聖書においてこの言葉がまず意味するのは、力がないために押し潰されて、苦しんでいる人たちです。この世のどこにも拠り所を持たない、持ち得ない人々です。それゆえに、ただひたすら神に望みを置き、神を呼び求める人々です。弱いから、乏しいから、ただ神の憐れみを乞い求めるしかない。そのような人々です。それゆえに、この「貧しい人」という言葉は、しばしば詩編などにおいて、苦難の中にある信仰者を意味する言葉として用いられています。
そして、ここには「貧しい人」について語られているだけではありません。「打ち砕かれた心」についても語られております。「打ち砕かれた心」は、よく知られています詩編51編にも、次のよう一節として出てきます。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)。
このように、「打ち砕かれた心」とは「悔いる心」です。「悔いる心」とは、同じ詩編に歌われていますように、「咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(同4節)と願い求める心です。つまり、ここに語られているのは、自分の無力さ、乏しさを知るだけでなく、自分の罪深さを知る人のことなのです。神に「助けてください」と祈るだけでなく、「赦してください」と祈る人です。
先にも申しましたように、彼らは災いを嘆いていたのではないのです。荒廃した現実を見て、誰かを悪者にして、嘆いていたのでもないのです。そこにあったのは、自分の罪に対する嘆きであり、《自分を含めた》この世界の罪に対する嘆きなのです。ですから「灰に代えて」という言葉も出て来る。灰をかぶるのは、神の赦しを乞い求める、悔い改めの姿です。
また、ここでは「捕らわれ人」と「つながれている人」についても語られています。この預言が語られたのは、時代としては、バビロン捕囚後と言われていますから、直接的にはバビロンにおける捕囚状態を意味しているわけではありません。象徴的な表現と見ることもできるでしょう。いずれにせよ、それがどのような状態であれ、捕らわれ人、つながれている人は、自分で自分を救うことができない人です。ならば、救いは外からもたらされるしかありません。ここに書かれているのはそのような人たちです。
このような「貧しい人」「打ち砕かれた心」「捕らわれ人」「つながれている人」のような言葉をもって表現され得るのが、この「シオンのゆえに嘆いている人々」です。要するに、彼らは荒れ果てた目の前の現実を自らの力でどうすることもできないのです。廃墟をもたらした罪の負い目をも、自分でどうすることもできないのです。そもそも、自分の力でどうにかできるなら、嘆いてなどいないのです。
そして、良き知らせを聞くのはそのような人々だと、預言者は語っているのです。彼らにこそ神の救いの使信が届けられるのです。喜びの香油は嘆きに代えて与えられるのです。いや、ここにはさらに驚くべき言葉が語られております。「彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」(3節)と預言者は語っているのです。
主が輝きを現すのは、力があり、富んでおり、自信に溢れている人々、嘆きとは無縁の人々によるのではありません。嘆くことしかできない人々こそ、主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木に他ならないと言うのです。そして、彼らこそが、とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興すのだと、続く4節に語られているのです。
ここには、聖書の語る不思議な世界があります。「私たちが建て直すのだ。シオンの未来は私たちの手にかかっているのだ」と言う人々が廃墟を建て直すのではないのです。廃墟を建て直すことなどできない者たちが、廃墟を建て直すのです。無力で乏しい人たち、我が身一つどうすることもできない捕らわれ人たちこそが、廃墟を建て直すのです。嘆きながら主を待ち望むことしかできないそのような人たちこそが、廃墟を建て直すのです。
復活節を過ごす私たちとして
さて、イースターからペンテコステに向かうこの復活節に、今、この御言葉が読まれていることには大きな意味があるように思います。復活の主に相まみえたあの弟子たちの姿が、ここに語られている「貧しい人」「打ち砕かれた心」の人々、ひたすら外からの力による自由と解放を待ち望むしかない「捕らわれ人」「つながれている人」、そのような「シオンのゆえに嘆いている人々」と重なってくるからです。
復活したキリストにお会いした彼らは、キリストを十字架につけたこの世界のただ中に置かれることになりました。そのような世界にあって、彼らは全く無力な人々でした。いや無力であるだけでなく、自分たちもまた、キリストを十字架につけたこの世界の一部であることを嫌というほど思い知らされた人々でした。彼らはキリストの十字架の御前において、一度、神によって完全に打ち砕かれてしまった。そのような人々でした。
しかし、彼らの嘆きは確かに喜びに変えられたことを私たちは知っています。貧しい者は良い知らせを告げられ、打ち砕かれた心は包まれました。救いは外からもたらされました。灰に代えて冠が、嘆きに代えて喜びの香油が、暗い心に代えて賛美の衣が与えられました。それだけではありません。彼らは集まって心を一つにして祈り、神の霊を待ち望み、やがて神の霊に満たされた彼らは、この世に遣わされていきました。「彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」――そう、私たちは主が彼らを通してこの世界に輝きを現されたことを知っています。すべては、嘆きを喜びに変えてくださる神がなしてくださったことでした。
その同じ神を信じて、私たちはここに集まっております。同じ神を信じて、今、ペンテコステへと向かう復活節を過ごしている私たちです。この復活節をどのように歩むべきか、主の導きを求めて祈りましょう。