2022年8月21日日曜日

「神の憐れみ、とこしえの慈しみ」

イザヤ書 54:1‐8

不妊の女よ
 本日は第一朗読において、イザヤ書54章が読まれました。預言者を通して語られた神の言葉です。その主題は、罪の赦しと回復です。

 時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつてダビデ・ソロモンの王国として繁栄を極めたユダ王国は、ついに滅亡することとなりました。王国の都エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。世界史においてはバビロン捕囚と呼ばれる出来事です。

 それから五十年近くの時が流れました。バビロンの捕囚民は、新しい時代の到来を肌で感じていました。キュロス率いるペルシア軍がバビロンの都を制圧し、バビロニアに代わってペルシアがオリエント一帯を支配する時代が到来したからです。ペルシアの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていました。ペルシアの王キュロスは、被占領民族を支配するに当たり、それぞれの民族の文化と宗教を重んじる政策を採ったからです。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、キュロスの勅令により、ユダの地に帰還しエルサレムを再建することが許されたのです。

 その時をひたすら待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。その様子はエズラ記に詳細に記されております。しかし、彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在していたところは瓦礫の山です。しかも、彼らの周りはこの再建を快く思わない諸民族に囲まれていました。激しい妨害にも遭いました。彼らが抱いていた希望が次第に潰えていったとしても不思議ではありません。

 彼らが荒れ果てたエルサレムを目の当たりにした時に、思い起こされるのは捕囚に至るまでのイスラエルの歴史でした。それは一言で言うならば、神に逆らい背き続けてきた歴史でした。結局、彼らが目にしているその荒れ果てた状態は、ただ敗戦の結果なのではなく、神の呼びかけを拒否し続けた罪の結果に他ならなかったのです。暗い過去を思うとき、現在と未来に希望が持てなくなる。それは彼らと置かれている状況が異なる私たちにも分かることでしょう。過去の罪を思うならば、現在と未来に希望が持てなくなるのです。

 しかし、そのような彼らに、いやそのような希望を失った彼らだからこそ、神は預言者を通して語られたのです。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声を上げ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる」(1節)。

 古代イスラエルにおいて不妊がどれほど辱めの対象となったかは、旧約聖書の至るところに見ることができます。夫に捨てられた女というものも、当時の社会においては、これ以上ない悲惨な状態にありました。そのような「不妊の女」「夫に捨てられた女」として語られているのは、明らかにこれを聞いているイスラエルの人々です。彼らにもそれは分かったはずです。自分たちがどれほど惨めな状態にあるか、骨身に染みて分かっていたでしょうから。

 しかし、そのような、どう考えても喜び得ない現実の中で、神は預言者を通してなおも「喜べ」と言われるのです。驚くべき神の呼びかけです。「喜べ」と言われるのは、なぜでしょうか。それは、彼らがどのような状態にあろうとも、どん底にあろうとも、神は彼らを回復することができるからです。人間の側だけを見ているならば希望はありません。しかし、希望は向こうから、神の方からやってくるのです。こちら側だけを見ていたら、到底喜び得る状態にないかもしれない。しかし、神の方から「喜べ」という声が響いてくるのです。それが信仰の世界です。

歓声を上げ、喜び歌え
 そもそも、「喜べ」という呼びかけは、何か根拠がなければ意味を持ちません。冬山に遭難して死にそうな人に、根拠もなく「喜べ」とは言わないでしょう。しかし、助けがすぐそこまで来ていることを知っているならば、その人は言うことができる。「喜べ!もうすぐ助けが来るぞ」と。

 どう考えても喜べない状態にある人々に、なおも神が「喜べ」と言われるのは、彼らが喜んで良いという根拠があるからです。その根拠は人間の側でなく神の側にあるのです。それは何か。――神による徹底した罪の赦しです。最終的に罪の「赦し」は神しか与えることができません。その神が、彼らの罪を赦してくださる。神が「喜べ」と言われるのは、そのような意味なのです。

 4節には、次のように語られています。「恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな」(4節)。

 「若いときの恥」というのは、捕囚となる前のイスラエルの犯してきた諸々の罪です。神から離れ、偶像に惹かれ、神から遣わされた預言者が繰り返し立ち帰るようにと呼び掛けたにもかかわらず、悔い改めて立ち帰ろうとはしなかったイスラエルの過去です。そして、「やもめのときの屈辱」というのは、バビロンに捕囚となった後のイスラエルの受けてきたことです。その苦しみは、ある意味ではすべて過去の罪の結果であり、自ら蒔いたものを刈り取ることとなった惨めな現実と言ってよいでしょう。

 主はそれをもう忘れてよいと言われるのです。なぜでしょうか。「あなたの造り主があなたの夫となられる。…捨てられて苦悩する妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかとあなたの神は言われる。わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる」(5-7節)。そのように主は言われるからです。

 神はそのように罪ある者を取り扱ってくださるのです。確かに、神が人間をこらしめることはあります。罪は自らに苦しみを招きます。しかし、神のこらしめは永遠ではありません。神は再び憐れんでくださるお方です。そして、永遠なのは、その憐れみであり、慈しみの方なのです。「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる」(8節)。

信じる者として生きる
 さて、ここまで読みまして、私たちは二つのことに注意を向けなくてはなりません。その第一は、神の赦しがどのようにもたらされたか、ということです。今日は54章を読みました。その直前には新共同訳において「主の僕の苦難と死」と小見出しが付けられています。一般的には「苦難の僕の歌」と呼ばれる部分です。今日はその内容に深く触れることはできませんが、そこには名も知れぬ一人の人が、人々の罪を代わりに背負い、苦しみを受けるということが書かれているのです。この歌の最後はこう締めくくられているのです。「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(イザヤ53:12)。

 その歌に、今日の箇所は続いているのです。苦難の僕の歌に、回復の預言が続いているのです。この配置は明らかに意図されたものです。神の一方的な赦しは、誰かがその罪を代わりに負うことなくして実現しないということです。そして、それをもたらしたのがこの「苦難の僕」なのです。そこで古くからこの「苦難の僕の歌」はキリストの預言として読まれてきたのです。キリストの苦難なくして、罪の赦しはないのです。

 そして、もう一つ。私たちが忘れてはならないことは、罪の赦しによって確かな回復の希望が与えられたなら、その信仰に従って行動すべきだということです。信じたならば、そのように行動しなくてはなりません。2節に戻りますが、そこにはこう書かれています。「あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、惜しまずつなを伸ばし、杭を堅く打て」(2節)。人がまだいないのに、住まいの幕を広げることは愚かに見えることでしょう。そんなことに意味があるのでしょうか。――あるのです。それが信仰的な行動です。彼らは回復を信じたのなら、イスラエルの再建に着手しなくてはならないのです。まだ回復された現実を見ていないとしても、信じたのなら、既に見ているように行動すべきなのです。

 私たちも同じです。罪を赦され贖われ、神のものとされました。神の回復と豊かな祝福の中に生きているのです。そして、やがて私たちは永遠の御国において完全に救われた者として、神が用意してくださったすべての祝福に与るでしょう。とはいえ、私たちは完全に救われる神の御国をまだ見てはいません。私たちには、苦しみがあり、悲しみがあり、希望を奪っていく現実があるのでしょう。しかし、最終的な救いを信じているのなら、まだ見ていなくても、神に感謝を献げ、救われた者として行動し、生活すべきなのです。こちら側だけを見て、希望のない者のように生きてはなりません。希望は向こう側から、私たちを赦し、回復してくださる神の側から来るのです。
(祈り)

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