2025年4月27日 主日礼拝説教
聖書:イザヤ書 65:17‐25
今日は第一朗読においてイザヤ書が読まれました。最終的な神の救いが次のように表現されていました。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」(17節)。
救いの描写の縮小版
「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」。――「天と地」の組み合わせによって表現されているのは、被造物世界の全体、全宇宙を含めて、見えるものと見えないものとの全体です。そのすべてを全く新しくすると主は言われるのです。
そのように語られた次点で事柄は私たちの思考の枠を完全に越えてしまいます。もはや私たちには想像することすらできない。だから「それはだれの心にも上ることはない」と書かれているのです。ここに語られていることは、要するに、私たちの想像することもできないようなことを最終的に神様はなさるのだ、ということです。
逆に言うならば、そうでもしなかったら私たちは救われないのだ、ということです。それほどまでに救いがたいのが人間です。神が新しい天と新しい地を創造するようなことでもなければ、私たちは救われない。そして、神様はそのようなことをしてでも救ってくださる神様だということです。
さて、そのように神が最終的に行おうとしておられることは、本質的に私たちの想像を遙かに超えた出来事です。しかし、神様はそれを私たちの想像の枠内に収まるように語り直してくださるのです。それが18節以下です。そこには救いの世界が、私たちもある程度想像できるような仕方で書かれているのです。
長寿が祝福となる世界
そこで18節以下に目を向けますと、その中心に描かれているのは、救われた人々が「長寿」であることです。「そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(20節)。
救いの世界が「長寿の世界」として表現されているのは、決して自明のことではありません。実際、この世における「長寿」について考えてみてください。「長寿」は単純に「救い」と結びつくでしょうか。「長寿」は単純に「祝福」と考えられますでしょうか。日本は世界一の長寿国です。だからと言って単純に日本の高齢者は幸せだ、と言えるのでしょうか。言えないだろうと思います。
長寿が祝福として語られるためには、どうしてもその前提が必要です。それは「喜びがある」ということです。生きていることに喜びが伴っているということです。ですから、長寿について語られる前に、まず喜びについて語られているのです。主は言われます。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(18節)。
若い時に経験した喜びの多くは、歳を重ねるに従って失われていきます。ここにあるように神が喜び楽しませてくださってこそ、長寿は祝福となるのです。いや、ここにはさらに深い喜びが語られています。「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする」(19節)。つまり真の喜び、変わることのない喜びは、神が喜び楽しませてくださるだけでなく、《神の喜び》となるところにあるのです。神はそのような喜びを与えると言われるのです。
狼が小羊と共に生きる世界
そして、その喜びは21節以下に書かれていることと深いところで結びついています。そこには次のように書かれています。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを、他国人が食べることもない」(21‐22節)。
ここで「他国人」と訳されていますが、元来の意味は「他人」です。自分が建てたものに他人が住み、植えたものを他人が食べる。それが意味するのは、「他人に奪われる」ということです。奪われることに怯えて生きざるを得ないのは、私たちが奪い合いの世界に生きているからです。小さな家庭内の兄弟喧嘩から、国家間の戦争に至るまで、まさに人類が今日に至るまで織りなしてきたものは、この奪い合いの歴史です。
しかし、ここに描かれているのは、もはや奪われることのない世界です。害されることのない世界です。奪われる恐れがないのは、神が近くおられ、神が治めてくださるからです。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(24節)。それほどに神は近くにいてくださるのです。
いや、ここに書かれていることはより大きなことです。神は近くにいて奪われる者を奪う者から守ってくださるだけではありません。そもそもの奪い合う《悪そのもの》を取り除いてくださるのです。害し合う悪そのものを取り除いてくださるのです。そして、皆が本当の意味で共に生きるようにしてくださるのです。
25節に書かれているのはそういうことです。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(25節)。そのように共に生きることができる。そして、共に生きる世界にこそ、神の与えてくださる喜びが満ちるのです。
キリストの十字架のゆえに
さて、このようなエルサレムの描写は、先に述べたように新しい天と新しい地そのものの描写ではありません。人間の思考の枠に収まるように加工されたものです。しかし、これらの言葉から、少なくとも神様が何を私たちに与えたいと望んでいてくださるかは分かります。
主は、奪い合い害し合う「悪」そのものが取り除かれた世界を望んでおられる。私たちが共に生きる世界を望んでおられる。そして、長寿が祝福とみなされるような喜びが満ちた世界、神の喜びを共有する世界を望んでおられるのです。もちろん、望んでおられるだけでなく、神様は与えてくださるのです。そのために、神はこの世界にキリストを遣わしてくださったのです。
しかし、キリストが来られた時、預言者イザヤの書に書かれているようなことは実現しませんでした。そこで何が起こったのか。私たちは良く知っています。神が遣わしてくださったキリストは、人間の手によって十字架にかけられ、殺されてしまったのです。
今日の第二朗読において、パウロは次のように語っていました。「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」(使徒13:27‐29)。
そのように、神が救いのために遣わされたキリストを、人間は罪に定めて十字架にかけて殺してしまったのです。そのような形において人間の罪が白日のもとにさらされることになりました。あくまでも自分の正しさを主張し、神の子さえも裁いて罪に定めて殺してしまう、そんな人間の罪が明らかにされたのです。
そうです、あの日、イザヤ書に書かれている救いの世界は実現しませんでした。むしろ、私たち人間がいかに救いから遠いか、私たちがいかに救いがたい罪深い存在かということが明らかにされたのです。しかし、そこでパウロは言うのです。「イエスについて書かれていることがすべて実現した」と。すなわち、神様が計画しておられたことがすべて実現した。そのように聖書は語っているのです。
つまり、イザヤ書65章に語られていた救いの世界が実現する前に、この地上には十字架が立てられなくてはならなかった、ということなのです。奪い合い害し合う悪そのものを取り除いてくださる前に、私たちが共に生きる世界を神が与えてくださる前に、喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を与えてくださる前に、神は私たち人間の罪を赦すために、十字架をこの地上に立てなくてはならなかったのです。御子イエスの血によって罪の贖いを成し遂げなくてはならなかったのです。すべては既に書かれていたことでした。神のご計画の中にあったことでした。
だからこそ、十字架には続きがあるのです。パウロはこう続けます。「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(使徒13:30)。
神は私たちの想像を超えたことをなさいます。キリストの復活という出来事自体が、既に私たちの思考や想像を超えています。「だれの心にも上ることはない」ようなことを神はなさいました。そして、最終的に「だれの心にも上ることはない」ような仕方で、救いを実現してくださいます。奪い合い害し合う悪そのものを取り除いてくださいます。私たちが共に生きる世界を与えてくださいます。喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を与えてくださいます。「新しい天と新しい地の創造」としか表現できないような仕方において与えてくださるのです。
そして、救いの言葉は既に私たちに送られ、こうして私たちは受け取っています。私たちは最終的な完全な救いを信じて、希望をもって生きることができるのです。いや、私たちは救いを待ち望んで生きるだけでなく、私たちは既にその新しい天と新しい地を味わい始めているのです。大きなデコレーションケーキの端っこのクリームをなめさせていただくような仕方で味わい始めているのです。それが信仰生活です。
既に罪の赦しの十字架は立てられました。十字架につけられたイエスの御名による罪の赦しが宣べ伝えられています。私たちは罪を赦していただいた者として、信仰生活の恵みにあずかります。そして、罪を赦していただいた者として、新しい天と新しい地における救いの完成を待ち望んで生きるのです。