サムエル記上 15:1-35
13章において、サウルがサムエルの到着まで待つことができず、自ら犠牲を捧げてしまったという話を読みました。もちろん、サウルにはサウルの言い分がありました。兵士たちが次々に去って行こうとしている時に、兵士たちの志気を保つのにはそれ以外の方法はない。一刻の猶予もない。それは極めて現実的な判断だったとも言えます。しかし、本当は、そのような危機においてこそ、彼はイスラエルの信仰の物語の中に身を置くのか否かを問われていたのです。
サムエルはサウルに言いました。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに」(13:13)。――しかし、主はすぐにサウルを王位から退けるようなことはなさいませんでした。むしろ、続く戦いにおいて、全くの少数であったにもかかわらず、サウルに大勝利を与えられたのです。すなわち、これが確かに主の戦いであることを明らかにしてくださったのです。いわばかつてのギデオンの物語を目の当たりに見せてくださったということです。それはサウルにとっては悔い改めの機会であり、信仰に立ち帰るようにとの呼びかけでもあったと言えるでしょう。
しかし、この章を読みますと、なんとサウルがサムエルから「主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ」(26節)と宣告されているのです。いったい何があったのでしょうか。いったいサウルの何が問題だったのでしょうか。
事の発端は、サムエルを通してサウルに与えられた命令でした。「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」(3節)。
このように神が戦争を命じられ、しかも「滅ぼし尽くせ」と命じられる箇所が旧約聖書にしばしば出てまいります。多くの人が抵抗を覚えるような言葉です。聖書の時代背景は今日私たちが生きる世界とは全く違いますので、これを簡単に説明したり理解したりすることはやはり難しいと言えます。しかし、このような箇所を読むにあたって、少なくとも心に留めておかなくてはならない幾つかのことがあります。まずそれらの諸点に触れておくことにしましょう。
第一に、この命令は、あくまでも《アマレクに対する裁き》として位置づけられていることは見落としてはなりません。後に18節に「罪を犯したアマレク」と書かれているとおりです。あくまでも罪に対する裁きとして語られているのです。この場合、イスラエルは、神の裁きのための道具に過ぎないのであって、滅びをもたらす主体は神御自身なのです。
ですから逆に、イスラエルが罪を犯した場合には、その時にはイスラエルが他の国の手に渡されるということが起こります。それは既に士師記においても繰り返されていることであり、最終的にはイスラエルの国家が滅亡する次第をこの歴史物語は語っているのです。私たちは、このような記述から、神はこの世の罪を現実にお裁きになるのだ、という厳粛な事実を、まず受け止めるべきなのです。
第二に、イスラエルに神が戦争を「命じて」おられるということは重要です。それは、とりもなおさず、神が命じないような戦争はしてはならない、ということを意味しているからです。本当は自国の国益のためであるのに、あるいは復讐のためであるのに、あるいは戦争によって儲けようとする一部の人間の利益のためなのに、そのような戦争を神の名を騙って開始してはならないということです。
そして第三は、前に述べたことと関連するのですが、戦争に関する伝統的な理解は、「主の戦い」であるということです。ですから戦利品を私物化してはならないのです。それが「滅ぼし尽くせ」の意味するところです(cf.ヨシュア6:17)。職業軍人層を持つ周辺諸国においては、当然のことながら兵士の手柄は報償の対象となります。兵士はそのために戦うと言っても過言ではありません。しかし、イスラエルの兵士たちは、敵から何かを奪い取って自分たちのものとする、という目的で戦ってはならないのです。
さて、サウルはこのような意味を持つ主の命令に従ったでしょうか。従いませんでした。「…しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは《惜しんで滅ぼし尽くさず》、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」(9節)。
これが先と同じく600名で奇跡的に勝っていたら違っていたのかもしれません。しかし、サウルが召集した時、兵士の数は21万人を数えるほどになっていたのです(4節)。その軍隊をもって得た勝利でも「主の戦い」であると思えるか。いいえ、サウルにとって、これは「主の戦い」ではありませんでした。サウルはカルメルに自らのために戦勝碑を建てたのです。(同じアマレクとの戦いを記す出エジプト17章と比較してみてください)。
心の内にあるものは外に現れてきてしまうものです。大勝利を得ていながら、その心はいかに主から遠くあったことか。それは続くサムエルとのやりとりの中で明らかにされていきます。
サムエルがサウルのもとに行くと、サウルは言いました。「わたしは主の御命令を果たしました」。しかし、そこには牛や羊の声が響いています。サウルは次のように言い訳をします。「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです」(15節)。そのように、いかにも敬虔そうな言い訳をもって言い繕います。しかし、そこにある偽りをサムエルは見逃しませんでした。彼は言います。「何故あなたは、主の御声に聞き従わず、《戦利品を獲ようと飛びかかり》、主の目に悪とされることを行ったのか」(19節)。
しかし、私たちはサウルが単純に個人的な欲望から戦利品を求めている貪欲な人間であったと考えてはなりません。彼は王なのです。そして、新体制の王として賢く行動しようとしているのです。
イスラエルにとって深刻な敵はアマレクではありません。ペリシテなのです。まだまだ戦いは続きます。彼は新しく生まれた軍隊を維持していかなくてはなりません。今や21万人にもなった軍隊の志気を保つためには、周辺諸国がしているように、兵士たちに報償を与える必要も生じてきます。報償を求める声が兵士たちからも上がっていたのでしょう。そのような時に、アガグを殺し、すべてを滅ぼしつくすのは、あまりにももったいない。しかも、兵士に不満が満ちて統率が不可能になれば、自分の身に危険が及びます。そこで、彼は最終的に現実路線を選んだのです。
しかし、問題はそのような極めて人間的な知恵を、「主への供え物」という言葉をもって正当化しようとしたことです。サムエルは、あくまでも「主の供え物」と主張するサウルに言いました。「見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(22節)と。これは後々の預言者によって繰り返し語られるテーマです。人はいつでも「供えもの」に代表される宗教的な美徳を、自分の罪の隠れ蓑にしようとするものです。
サムエルの言葉の前に、サウルはついに罪を認めます。「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました」。そして、サムエルに赦しを請います。「どうぞ今、わたしの罪を赦し、わたしと一緒に帰ってください。わたしは、主を礼拝します」(25節)。
しかし、彼は本当に自分の不従順を認め、主の赦しを求めているのでしょうか。いいえ、そうではないのです。彼が本当に求めているのは、自分の立場が守られることなのです。
サムエルは依然として宗教的な権威を持つ指導者です。サムエルは民衆から尊敬されているのです。サムエルとの決裂が民衆の知れるところとなれば、彼の王位が危ぶまれることになります。サウルはついに本音をもらします。「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します」(30節)。
こうして、彼は真の悔い改めの機会を失いました。結局サウルにとって、イスラエルの神は、あくまでも「あなたの神、主」でしかありませんでした。