2026年3月1日 主日礼拝説教
聖書: エフェソの信徒への手紙 6:10-20
本当の敵と戦うために
今日の第二朗読ではエフェソの信徒への手紙が読まれました。その最後に、「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」(20節)と書かれていました。彼は今、獄中にいます。鎖につながれているのです。
しかし、それはパウロが強いられてきた苦しみのごく一部に過ぎません。別の手紙にはこのようなことが書かれています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(2コリント11:24-27)。
パウロは、これまで幾多の苦しみを味わってきました。すべて他の人間がパウロに対してしたことでした。それはユダヤ人がしたことであり、異邦人がしたことであり、盗賊がしたことであり、偽兄弟たちがしたことです。人から受けた傷は残ります。時として何年も残ります。パウロが人々から受けてきた幾多の傷跡は彼の肉体と心に深々と刻まれていたに違いありません。
しかし、そのパウロが今日の聖書箇所においてこう言っているのです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(12節)。「血肉」というのは人間のことです。私たちの戦いは人間を相手にするものではないのだ、と彼は言うのです。人間相手に戦っていてはならないのだとパウロは言っているのです。
なぜパウロはそう言えたのでしょうか。――それはパウロがキリストの戦い方を知っていたからです。祭司長たちや律法学者たちは、キリストを断罪して十字架へと追いやりました。しかし、それでも彼ららはなお、キリストの「敵」ではなかったのです。キリストは、彼らのためにも祈られました。「父よ、彼らをお赦しください」と。キリストはすべての人の救いのために十字架にかかられたのです。それゆえに、すべての人間は、血肉はキリストにとって「敵」ではないのです。
キリストが敵としていない者を私たちが敵としてはならないのです。だからパウロは言うのです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではない」と。キリストが戦っていた本当の敵は別にいたのです。本当の敵とは、聖書の表現によるならば、それは「悪魔」です。それゆえにパウロは、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)と語っているのです。
パウロは特にここで「悪魔の策略」という言葉を使っています。この世界には悪魔の策略が張り巡らされているのです。いつの間にか人間同士の戦いに巻き込まれているのもその一つです。その策略がいかに巧妙であるかは、人類の歴史を見れば明らかです。人類の歴史は戦争の歴史です。誰も望んでいないのに、人類はなぜ争い続けるのでしょうか。人間相手に戦っている時点で既に悪魔の策略に落ちているのです。
本当の敵は血肉ではありません。悪魔です。ならば悪魔と戦える強さが必要です。本当の強さが必要です。ですからパウロは言うのです。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)。依り頼むべきは自分の強さではありません。主とその偉大なる力です。それは信仰の生活において身につけるべきものです。ですから、身に着けるべき「武具」として表現されているのです。
立って武具を身に着けよ
ここでパウロは6つの武具を列挙しています。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(14‐17節)。
「立って」という言葉から始まっていますが、これは「立ちなさい」という命令です。パウロは一つ一つの武具について語る前に「立ちなさい」と語るのです。「立つ」というのは11節に「対抗して立つ」と書かれていますように、戦いの姿勢です。「戦う」つもりで立つのです。「もう人間相手の戦いはやめた!」そう言って、そして本当の敵に向かって立ち上がることです。
3世紀初頭に書かれた「ヒッポリトスの使徒伝承」という文書があります。それによると古代の教会の洗礼式においては洗礼の前に悪霊追放の儀式が行われていたようです。そこで洗礼を受ける者はこう宣言するのです。「サタン、わたしはおまえと、おまえの一切の虚栄と、おまえの一切のわざを捨てる」。すると司祭は油を塗りながらこう宣言するのです。「一切の悪霊があなたから離れ去りますように」。
洗礼を受けるということは、罪の赦しを受け、死んで甦った者として新しい命に生きることを意味しますが、「新しい命に生きる」とは、悪魔に反旗をひるがえして戦う者として生きることをも意味したのです。
もちろん、反旗を翻したわけですから、悪魔は攻撃してくるでしょう。再び自分の支配下に置こうとするでしょう。神に立ち帰った人を再び神から引き離そうとするでしょう。教会からも信仰からも引き離そうとするでしょう。しかし、私たちはキリストの側にいるのだということを認識して立つのです。そのように立って、神の武具を身に着けるのです。
当然のことながら、「身に着ける」のは「立った」本人です。誰かが代わりに身に着けるわけにはいきません。代わりに身に着けても意味がありません。ここで挙げられている武具はすべて、信仰をもって生きることによって身に着けるものです。信仰生活は本人が身に着けるのです。「うちの妻が熱心な信者ですから」「うちの親は敬虔なキリスト者でしたから」――関係ありません。身に着けなくてはならないのは本人です。
しかも、武具を身に着けるのと洋服を身に着けるのでは意味合いが違います。戦いの時に初めて身に着けた武具は役に立ちません。それまで身に着けて訓練していなければ、いざという時に役に立ちません。だから、「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかり立つことができるように」(13節)と書かれているのです。
「邪悪な日(悪い日)」と呼ばれるのがいつであるのかは分かりません。大きな試練の中に置かれる時であるのか、人生最後の時であるのか、世の終わりの時であるのか――いずれにせよ、それは、神の武具を身に着けて、しっかり立てるかどうかが問われる時です。そのような日が必ず来るのです。その時に、泥縄は役に立ちません。ならば「いつかその時に」ではなく、大事なのは「今」なのです。
祈ってください
さらにもう一つのことを心に留めましょう。身に着けるべき六つの武具について語った後、パウロはこう続けるのです。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(18節)。
人間相手の戦いならば、相手に打ち勝つために「祈り」は必ずしも必要ありません。実際、人間相手の戦いにのめり込めばのめり込むほど、人は祈らなくなります。神に語るよりも人に語ることの方が遙かに多くなるからです。
しかし、人間相手の戦いではなく、悪魔との戦いであるならば、偉大なる主の力にせよ、神の武具にせよ、戦いのためのすべては神から来るのです。それゆえに、「どのような時にも祈りなさい。願い求めなさい」とパウロは言っているのです。
そして、祈り、願い求めるのはただ自分の戦いのためだけではありません。悪魔との戦いであるならば、私たちは共に共通の敵と戦っているのです。ですから、他者の戦いのためにも祈るのです。「すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」とはそういうことです。そのようにして、私たちは祈りによって、他者の戦いを助けることができるのです。そして、その助けは空間的な隔たりを超えるのです。
実際、今日の箇所において、獄中にいるパウロ自身、遠く離れたエフェソの信徒たちに応援を求めています。「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」(19‐20節)と。コリントの信徒への手紙には、もっとはっきりと「あなたがたも祈りで援助してください」(2コリント1:11)と求めています。私たちは祈りにおいて遠く離れた人々をも助けることができるのです。遠く離れた教会の宣教の働きにも参加することができるのです。これは人間相手の戦いではなく、悪魔に対する霊的な戦いだからです。
私たちが祈るとき、私たちの人生に対して悪魔が行っていることに、少なからぬ影響を及ぼすことができるのです。他の人の人生に対しても悪魔が行っていることに、少なからぬ影響を及ぼすことができるのです。私たちが祈るとき、教会に対して、この世界に対して悪魔が行っていることに、恐らく私たちが想像もできないほどの影響を及ぼすことになるのです。なぜなら、私たちの祈りを聴いていてくださるのは神だからです。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」そうです。絶えず目を覚まして、根気よく祈り続けなくてはなりません。これは人間相手の戦いではなく、悪魔との戦いだからです。