サムエル記下 6:1-23
前章においてダビデがエブス人の町であったエルサレムを征服し、これを統一国家の首都としたことを見てきました。結論から言えば、エルサレムは確かに主が前もって選んでおられた場所でした。やがてそこに主の神殿が建てられることになるのです。さらにはそこを舞台として神が人間の救いのために計画された歴史の中心ともなるべき出来事、十字架と復活、そして聖霊降臨と教会の誕生が起こるのです。
しかし、当のダビデはそのような神の意図もご計画も知りません。彼がエルサレムを攻略してこれを統一国家の都にしようとしたのは、単純に政治的な理由によるものでした。すなわち、エルサレムが三方を谷に囲まれた天然の要害であり、外敵の侵略に対して極めて安全な場所であること。もう一つは、分裂の火種を常に内包していたユダと他の諸部族とのちょうど間にある場所だったこと。その意味で統一国家の首都としてこれ以上に相応しい場所はなかったのです。
そして、この章においてダビデはエルサレムに神の箱を移動しようとします。これもまた政治的な意図以外の何ものでもありません。つまり統一国家の中心は単なる政治的・軍事的な都では不十分なのです。かつてイスラエルが荒れ野を旅していた時の中心には常に聖所がありました。カナンの地に定住して後も、イスラエルの民の意識の中心にあったのは神の箱が置かれていた聖所でした。ダビデは久しく忘れられていたその事実に目をつけたのです。すなわち、統一王国を堅持するためには、どうしても宗教的中心となる聖所が必要だということです。政治的な権力だけでは十分ではないのです。エルサレムをそのような宗教的な中心とするために、もっとも効果的であったのは、久しく忘れられていた神の箱をそこに移すことだったのです。
神の箱のこと、覚えていますか。サムエル記上7章以来、物語の表舞台から姿を消していたので久々の登場です。実は、神の箱はずっとアビナダブという個人の家にあったのです。どうしてそうなったのか、経緯を振り返っておきましょう。
神の箱はもともとシロの聖所にありました。サムエルが育てられた場所、あの祭司エリがいた聖所です。ペリシテ人との戦争において戦局非常に厳しい状況となった時、人々はシロにあった神の箱を戦場に持ち出しました。そうしたら主の力によって有利に事が進むと思ったのです。しかし、イスラエルは戦いに破れ、神の箱も奪われてしまいました。しかし、神の箱が安置されたペリシテの町々で災いが起こり、ついにペリシテ人は神の箱を送り返すことにしました。
送り返された神の箱は、最初、ベト・シェメシュの人々に迎えられました。ところが、ある人々が箱の中を覗いたのです。主はベト・シェメシュの人々を打たれました。恐れた彼らは神の箱をキルヤト・エアリムに送ります。そして、箱はアビナダブの家に留められることになったのでした(7:1)。その後、イスラエルは王国となり、サウルが初代の王となりました。しかし、神の箱には全く言及されていません。要するに、サウルは神の箱に全く関心を向けなかったということです。アビナダブの家に放置されたままでした。
ダビデは神の箱がエルサレムへ移動されることを全イスラエルに知らしめるために、これを大々的に行いました。精鋭三万を集め、神の箱を新しい車に載せ、バアレ・ユダ(キルヤト・エアリムの別名)から運び上げるのです。仰々しい大行列がエルサレムを指して進んでいきました。
ところが、一向がナコンの麦打ち場に差し掛かった時に、一つの事件が起こりました。そこで牛がよろめいたのです。とっさにウザという人物が神の箱を押さえようとしました。すると、そのウザが突然死したのです。明らかに主に打たれる形で死んだのです。
ダビデはこの出来事に腹を立てました。不当な裁きに思えたのでしょう。神の箱が落ちないようにと配慮しただけなのに!しかし、怒りはすぐに恐れに変わります。「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と言って、神の箱の移送計画は即刻中止となりました。そして、彼は神の箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせたのです。
さて、ここで先の事件について考えてみましょう。そもそも根本的な問題は、神の箱を車に載せて運んだことにありました。神の箱が本来どのように扱われねばならないかは民数記4章に記されています。それは至聖所の垂れ幕によって覆われ、担ぎ棒によって運搬されねばならないのです。そこで重要なポイントは「聖なるものに対する畏れ」なのです。「彼らが聖なるものに触れて死を招くことがあってはならない」(民4:15)と書かれているとおりです。
彼らはもちろん神の箱を丁重に扱ったと思います。しかし、そこに欠けていたのは、聖なるものへの畏れだったのです。それはダビデがそもそも神の箱を国家の統一のために利用しようとしていたことに起因していたと言えるでしょう。それはかつて神の箱を戦場へと持ち出したイスラエルの人々のしたことと大して変わらないのです。
神の箱の背後におられるのは生ける神です。神は人の目的のために利用されるべき御方ではありません。かつて神の箱があったシロは神への背きのために滅びたのです。この事件はその事実を思い起こさせるのに十分な出来事でありました。また、ウザ自身について言えば、彼が神の箱が落ちないように押さえようとしただけであって、それはまったく善意から出た行為であったことを忘れてはなりません。人が神のために良かれと思って為すことが、神への畏れを欠いているならば、むしろ神の裁きを招くものとなり得るのです。彼は、自分が支えようとした神の箱の傍らで死んだのでした。
こうしてダビデは主の箱の移送計画を白紙に戻さざるを得ませんでした。ところが、箱が留め置かれたオベド・エドムとその家の者一同を主は祝福されたのです。そのことを知るとダビデは直ちに出かけ、再び箱をエルサレムへと運ぼうとしました。なんというお調子者でしょうか。しかし、聖書はある意味で単純素朴なこの虫のよさを肯定しているようにも見えます。神を畏れることは必要ですが、恐れて遠ざけることは正しくないからです。神の箱は喜んで迎えたら良いのです。ただ神を畏れるおとを弁えた人間として迎えたら良いのです。
ダビデの意識がこの三ヶ月の間にどう変わったかは、13節によく現れています。今度は正しい仕方で担ぎ棒によって主の箱が運ばれています。そして、担ぐ者が六歩進みました。その六歩は恐るべき緊張のもとに進められたと思います。それは神の箱がエルサレムへと運ばれることを神が良しとされるかどうかを問うための六歩だったに違いありません。そして、主はそのことを良しとされたのでした。
恐れは爆発的な喜びへと変わりました。ダビデは主の御前で力のかぎりに踊ります。裸になって踊ります。そこにあったのは、もはやこの箱を用いて国家を宗教的にも統一しようと目論んでいた王の姿ではありませんでした。そんなことはもうどうでも良くなっていたのです。もっと大きなことが起こっているからです。本来ならば恐れざるを得ない聖なる御方が、恵みをもって臨んでくださる。祝福をもたらす御方として近くにいてくださる。そのことを心から喜び楽しむ一人の男の姿がそこにありました。彼はその喜びを全国民と共に分かち合ったのです。そうです、たった一人を除いては。
その一人とは、当のダビデの妻ミカルでした。彼女はここでダビデの妻としては言及されておりません。二回「サウルの娘」と呼ばれています。彼女は、ダビデの姿を窓から見下ろしてさげすみました。そして、家の者に祝福を与えようとダビデが戻って来ると、彼にこう言ったのです。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように」。彼女は確かに神の箱にまったく無関心であったサウルの娘です。彼女は聖なる御方をエルサレムに迎えることを恐れることもなければ、喜ぶこともありませんでした。
そのミカルにダビデはこう告げました。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ」と。この章の最後には「サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた」と書かれています。本来ならば、ミカルが第一夫人ですから、その子が王位継承の第一位に当たります。しかし、サウルの娘からは王位を継承する者は生まれなかったのです。このことは、ダビデとその子孫の王位が、この神の箱の一件においても現されたように、ただ神の恵みによることを明らかに示しているのです。