サムエル記下 3:21b-39
ここまでのアブネルの動きを振り返ってみましょう。サウルの軍隊がペリシテ人に敗れ、サウルもその子ヨナタンも戦死しました。ペリシテ人の支配は一気に拡大し、イスラエルの王国は崩壊の危機に直面することとなりました。そこでサウルの軍の司令官であったアブネルは、イシュ・ボシェトを擁立して統一王国の再建に着手します。
しかし、一方においてユダ族が独自にダビデを立てて王としたために、イスラエルはユダ族と他の部族との間の内戦状態に陥りました。この状態が王国再建にとって望ましくないと判断したアブネルは停戦を呼びかけ、停戦が実現します。ところがその矢先に、権力の所在の問題においてイシュ・ボシェトとアブネルが決裂することとなったのです。アブネルはついにイシュ・ボシェトとサウル家に見切りをつけ、大きな方向転換を決断します。彼はダビデを全イスラエルの王とすべく動き始めるのです。アブネルにとっては、サウル王家に忠誠を尽くし、王家を存続させることよりも、戦後のイスラエルを再建することの方が重要だったのです。
アブネルはイスラエルの中でもともとダビデ擁立を願っていた長老たちを取りまとめ、もう一方で反対するベニヤミン族には自ら赴いて彼らを説得し、ついにダビデとの直接交渉にまで駒を進めます。そして、非常に良い手応えを得て、彼は帰路に着いたのでした。これが先週まで読んできたアブネルの動きです。
すべては、彼のシナリオどおりに進んでいたはずでした。しかし、彼はその直後に、ダビデの軍の長であるヨアブによって殺害されてしまうのです。それが今日お読みした箇所に書かれていることです。この悲劇はいったい私たちに何を教えているのか。私たちは良く考えねばなりません。
まず、ヨアブという人物について考えてみましょう。彼はダビデの姉ツェルヤの子、すなわちダビデの甥に当たります。彼はダビデがサウルの手から逃げ回っていた時から忠実に仕え、これまでダビデの一番近くで苦楽を共にしてきた人物です。ダビデがユダの王になるに至るまで、最も重要な働きをしてきた人物であるとも言えるでしょう。
アブネルが去った直後に、「そこへダビデの家臣を率いたヨアブが多くの戦利品を携えて略奪から帰って来た」(22節)と書かれていることに注意してください。このように、ダビデがユダ部族の王となった後にも、職業軍人層の存続のための財源は、もっぱら周辺諸民族を略奪し支配することによって確保されていたことが分かります。つまり、ヨアブはダビデの王権が強力な基盤を得るために、身を粉にして働いていたのです。ヨアブほどダビデの王座を守ろうと真剣に考えていた人物はいなかったに違いありません。
ところが、彼がそのような労苦から帰って来ると、サウル王家の軍の長アブネルがダビデに取り入ったという報告を耳にするのです。アブネルは猛烈に腹を立てました。そして、すぐさまアブネル殺害のために動き出したのです。
彼がアブネルを殺すに至ったのには少なくとも三つの理由がありました。第一に、アブネルはヨアブにとって自分の兄弟アサエルのの命を奪った憎き仇なのです。戦いの中でアサエルがアブネルを追っていた時、アブネルは追うのを止めるように必死に説得したことを私たちは知っています。また、アブネルが槍の穂先ではなく石突きでアサエルの下腹を突いたのも、追うのを止めるためであったことを私たちは知っています。明らかにアブネルに殺意はありませんでした。しかし、運悪く防具のないところに石突が入ってしまった。アサエルは死にました。それは事故でした。そのことを読者である私たちは知っています。しかし、ヨアブはそのことを知らないのです。兄弟を殺したアブネルがダビデに取り入ることを見逃すわけにはいきませんでした。彼はいわば兄弟の血の復讐を遂げようとしたのです。27節に書かれているとおりです。
しかし、状況を考えますと、動機は単なる個人的な恨みに留まりません。ヨアブにはダビデ王家を守っているのは自分であるという自負心とその使命への強い思い入れがありました。しかし、アブネルという存在がそのアイデンティティを脅かしているのです。既に見てきたように、アブネルは極めて力のある司令官でした。現実にサウル王家において実権を握っていたのは彼でした。加えて全イスラエルを取りまとめることができる、極めて優秀な政治家でもありました。そのアブネルがダビデの臣下となったなら、その軍においてもダビデの側近としても、必ず実力を発揮するようになることは火を見るより明らかです。それはヨアブにとって小さなことではありませんでした。人は自分の使命について真剣であればあるほど、その働きと地位が奪われることは耐え難いものなのです。
そして、ヨアブにはアブネルを退ける正当な理由もありました。25節においてヨアブが言っているとおりです。すなわち、アブネルがダビデ王家に入り込むことは極めて危険なことでもあったのです。そこまで彼を信用して良いのかということです。もし悪意をもってアブネルがダビデ王家に入り込んできたとしたらどうでしょう。ユダ以外のイスラエルを束ねている彼が、もし最後の最後で裏切ったらどうなるでしょう。そんな危険な人物が王家に入り込むことは、実力を行使しても阻止しなくてはならない。ダビデ王家の未来は自分の手で守らねばならないのです。それはヨアブにとって、対外的にもアブネル殺害の正当な理由だったのです。
一方、私たちはアブネルにも注目すべきでしょう。私たちは彼がヘブロンまで引き返してきたことに驚かざるを得ません。しかも、彼は二十人の部下を連れていたはずなのに、彼らを離れてヨアブと共に城門の中に入ってゆくのです。これではあたかも暗殺してくれ、と言っているようなものではありませんか。なぜでしょうか。つまり、アブネルは、まさかダビデの家臣に暗殺されようとは、夢にも思ってはいなかったのです。それはたとえ個人的な恨みを持つヨアブであったとしてもです。
そこにアブネルの驕りがあったと言わざるを得ません。その驕りとは、既に10節および21節に見てきたものです。すなわち、ダビデを統一王国の王にできるのは私以外にはいないという驕りです。ダビデとその家臣たちの未来にとって自分は無くてはならぬ存在だという自負があったのです。
それはある意味で無理からぬことでした。実際、その後の物語に見るように、ユダ族の大多数は他のイスラエル諸部族との和平推進派であったからです。兵士たちは皆、アブネルの提示したプランが実現し、イスラエルとユダの和平が成立して、ダビデが統一王国の王となることを望んでいたのです。そこで誰の目から見ても、その鍵を握っていたのはアブネルという人物なのです。
しかし、その自負が、その驕りが、まことに皮肉なことですが、彼の身に滅びを招いたのでした。そして、これもまた皮肉なことに、彼がいなくても、いずれにせよダビデは統一王国の王となるのです。来週読みます4章に見るとおり、アブネルの死が引き金となってイシュ・ボシェトも殺害され、結局、サウル王家そのものが崩壊してしまうことになるからです。
さて、このようにヨアブはダビデ王家の未来を守るのは自分であると考えていた。一方、アブネルは、ダビデを統一王国の王とするのは自分であると考えていたのでした。ヨアブもアブネルもある意味では国の未来を真剣に考え、純粋な志を持って行動していた人たちだったのです。しかし、しばしばその純粋な志というものが曲者となるのです。それはまさに未来は自分たちの手にあり、自分たちが確保するのだ、という驕りともなるからです。繰り返し語られてきたように、ダビデの王座が確立されるのは、人間の力や計略によるのではないのです。それは神の約束によるのです。それは神の恵みによるのです。人によるのではないのです。
ダビデはアブネルが死んだことを知ると、彼は公にヨアブを非難します。そして、ユダの国をあげて国葬を行うのです。葬りに際して、墓に向かって声をあげて泣きます。弔歌を詠んでこれを公にします。その日が終わるまで彼は断食します。そして、家臣にも、ヨアブとその兄弟が手にあまることを説明します。
ダビデはアブネルの死を純粋に悲しんでこのように行っているのでしょうか。それとも政治的な意図によるパフォーマンスなのでしょうか。はっきり言って、よく分かりません。どちらであるとも言えます。しかし、そのいずれであるかは、実は大して重要なことではないのです。大事なことは別にあるからです。
それは、ダビデが語っているように、アブネルの死について、ダビデは潔白であるという事実です。ダビデが心から悲しんでいようと、形だけの悲しみのパフォーマンスであろうと、ダビデが潔白であること自体は、まぎれもない事実なのですから。
どうしてその事実が大事なのか。これまでこの物語を一緒に読んできた皆さんにはもうお分かりでしょう。ダビデがイスラエルの王となるのは、ダビデがサウル王家を意図して亡ぼして王となったのではないことを意味するからです。これまで繰り返し語られてきたように、これは政変によって奪った王座ではなく、あくまでも神によって与えられた王座なのです。この物語は、歴史の真の主人公は人間ではなく神であることをあくまでも語っているのです。