2026年3月11日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 4:1~12

サムエル記下 4:1-12

 今日の箇所に入りますと、「アブネルがヘブロンで殺されたと聞いて、サウルの息子イシュ・ボシェトは力を落とし、全イスラエルはおびえた」(1節)と書かれています。ペリシテ軍によってイスラエル軍が壊滅状態に追い込まれ、サウル王も息子のヨナタンも戦死してしまった後、アブネルの尽力によって建て直されつつあったイスラエルの王国でしたが、その新生イスラエルの体制は、わずか二年たらずの期間存在しただけで、事実上アブネルの死と共に崩壊してしまったのです。それゆえに、しばらくの政治的な空白期間を経て、結局、イスラエルはダビデを王とする国となるのです。アブネルがいたからダビデは王となれたのではなく、アブネルがいなくなってもダビデは王となるのです。

 イシュ・ボシェトはどうでしょう。彼が王国における実権に関して、アブネルと対立したことは既に見てきたとおりです。その結果、アブネルに見切りを付けられたわけですが、その時、イシュ・ボシェトは「アブネルを恐れ」たと書かれています(3:11)。そして、そのアブネルが死にました。恐れていたアブネルが死んで恐れが無くなったかと言えばそうではありませんでした。「力を落とし」と訳されていますが、これは「両手の力を失う」という意味の言葉です。ただ気落ちしただけではありません。実質的に無力になったということです。もはや本当に名目上の王でしかありません。

 いやそれどころか、サウルに代わって擁立され、自らもその王座にこだわったイシュ・ボシェトは、一転してイスラエル中でもっとも邪魔なお荷物になってしまったのです。この時点で、アブネルが既にしてきた根回しによって、イスラエルの長老たちのほとんどはダビデ擁立に賛成なのです。サウル王家が滅びてくれたなら、ダビデを擁立して、王とすることに支障となるものは、もはや何もないのです。だから結局は、最後に残った障害は、アブネルが王国の未来を開くために擁立したイシュ・ボシェトという王なのです。その王が、今や未来への道に横たわる障害物となってしまったのです。これもまた皮肉なことです。そのような状況下において、イシュ・ボシェトは結局、殺害されてしまうのです。気の毒と言えば、これほど気の毒な人はないとも言えます。

 さて、この章において、特にスポットが当てられているのは、レカブとバアナです。今日はこの二人に注目してみましょう。彼らは2節で「ベエロトのリモンの息子」であると紹介され、5節にもう一度「ベエロト人リモンの子」と呼ばれ、9節でまた同じ言葉が繰り返されています。このように殊更に強調され繰り返されている言葉には注意しなくてはなりません。そこには必ず理由があるからです。

 彼らは共に「ベニヤミンの者」(2節)です。ですから、サウル王家と同じ部族です。ダビデにとってのユダ族と同じです。しかし、そこにはわざわざ「ベエロトもベニヤミン領と考えられるからである」と思わせぶりな注が付けられています。つまり、それは本来はベニヤミン領ではない、ということを意味しているのです。なぜベニヤミン領でないベエロトがベニヤミン領と見なされるようになったのか。もともといたベエロト人は追い出されたのだと説明されていいます。彼らはギタイムに逃げ、後々までそこに寄留していたのです(3節)。

 このベエロトという地名はヨシュア9章に出てくるのですが、もともとはギブオン人の町の一つでした(ヨシュア9:17)。ギブオン人はイスラエル人ではありませんが、ヨシュアの時代にイスラエルと協定を結んだ関係にありました。彼らは、本当は近くに住んでいたのに、わざわざボロボロの格好をしてヨシュアのもとに来て、「僕どもはあなたの神、主の御名を慕ってはるかな遠い国から参りました」と嘘をついたのです。そして、「どうか今、わたしたちと協定を結んでください」と願ったのです。ヨシュアは彼らと和を講じ、命を保証する協定を結びました。そして、神の御前において、武力をもって滅ぼしたりはしないと誓約したのです。

 そのようないきさつで、ギブオン人は被差別少数民族として、ずっとイスラエルの中に生き残ることになったのでした。しかし、なんとその少数民族を、かつてサウルは滅ぼそうとしたのです。後で詳しく見ることになりますが、21章にはこう書かれています。「ギブオン人はアモリ人の生き残りで、イスラエルの人々に属する者ではないが、イスラエルの人々は彼らと誓約を交わしていた。ところがサウルは、イスラエルとユダの人々への熱情の余り、ギブオン人を討とうとしたことがあった」(サムエル下21:2)。

 サウルが行ったようなことは、実はこの世界の歴史においては繰り返し起こってきたことでした。つまり、為政者が異質な少数民族を排除したり滅ぼしたりして、民族の純化を計ろうとすることはあるのです。そのような民族純化政策を展開する時というのは、そのことによって国家の統一を図りたい時なのです。サウルはユダと他のイスラエル民族との分裂の火だねが既に存在することを見抜いていたのでしょう。その意味では、事柄の善悪は別として、サウルの取った行動は鋭い政治的な洞察に基づくものであったとも言えるのです。

 ともかく、その民族純化政策に基づく少数民族弾圧の際に、ベエロトの人々の多くもまた、そこを去ってギタイムへと逃げていったものと思われます。そのベエロト人リモンを父に持つ二人、それがをこれがレカブとバアナだったのです。ベエロト人にとっては、サウルはある意味では仇なのです。だから、サウルの息子であるイシュ・ボシェトと彼らとの関係は、単なる主従関係として考えられない、複雑なものがあったのです。サウル王家には恨みを抱きながらも、もう一方でイシュ・ボシェトによって略奪隊の長に任命され、サウル王家の録を食んで生きているわけです。「このサウルの息子のもとに二人の略奪隊の長がいた。名をバアナとレカブといい、共にベニヤミンの者で、ベエロトのリモンの息子であった。ベエロトもベニヤミン領と考えられるからである」という描写は、そのような主従の複雑な関係を伝えているのです。

 ところが、アブネルが死んだ今、彼らを取り巻く状況も大きく変わってしまいました。実質的な力を失ったサウル王家に彼らが仕え続ける理由はなくなってしまったのです。彼らはイシュ・ボシェトの家に向かいます。「小麦を受け取る振りをして」は意訳ですが、まだ王ではあるイシュ・ボシェトに近づくために様々な策を講じたことは考えられます。イシュ・ボシェトが昼寝をしている時間もまた計算の中に入っていたのでしょう。彼らは予想通り寝室に横たわるイシュ・ボシェトを殺害し、首をはねて持ち出します。ダビデのもとに持って行くためでした。

 既に述べたように、彼らの行動の背景には先祖の恨みがあります。また、今やイシュ・ボシェトという存在がイスラエルの重荷であるという理解もあります。何よりも、これから自分たちが生きていくためには新しい主君が必要なのです。その主君はダビデでなくてはなりません。ダビデに取り入るために一番の近道はイシュ・ボシェトの首を持っていくことであると彼らは考えたのです。

 彼らは夜通し南へと歩き続けます。そして、ついにヘブロンのダビデのもとに着いたのでした。彼らは言います。「御覧ください。お命をねらっていた、王の敵サウルの子イシュ・ボシェトの首です。主は、主君、王のために、サウルとその子孫に報復されました」。ところが、ダビデは彼らに報償を出すどころか、処刑してしまったのです。彼らはダビデの命令によって木にかけられたのでした。

 バアナとレカブも決して時代を読めない愚かな人々ではありません。サウルだってアブネルだってそうです。彼らは時代の流れを正確に見抜いていたのです。そして、時流に乗るために、自らの思惑に従って行動します。そして、ある意味ではほとんど彼らの思い通りに事は進んでいたのです。しかし、思い通りに事が進んでいくということは、時として恐ろしいことなのです。彼らの場合、その先に待っていたのは滅びでした。

 その一方で、ダビデは確実に王位へと近づいていきます。サウルが死に、アブネルが死に、イシュ・ボシェトが死にました。彼らを殺したのはダビデではありません。ダビデが目論んだわけではありません。そのことを聖書は繰り返し主張しています。実際、ダビデは策士ですが、彼のやっていることは、全イスラエルに対して自分の潔白を表すことで精一杯です。それ以上のことはできていません。しかし、彼は王になるのです。

 そこに、神の約束が確実に実現していくのを私たちは見ることになります。ここには、神の行為が直接的な形では出てきません。むしろ神は背後に隠れたままです。しかし、だからこそ、この物語は畏れを起こさせます。ある意味では人間にとって奇跡物語より、よほど恐ろしいとも言えるでしょう。人間の力が事を動かしていくのだと思い上がっている人間の目に、神の御手は見えません。しかし、その見えざる御手は確かに動いているのです。そして、神の望むところを実現するのです。

 さて、4節にはメフィボシェトについて書かれています。彼は後に繰り返し登場することになります。サウル王家が滅びる中にあって、ヨナタンの子孫が残っていくのです。かつてヨナタンはダビデに願いました。「また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい」(サムエル上20:15)。そして、そのこともまた実現していきます。神の大きな御手は国家の行方を左右しますが、その御目は足のなえた一人の人にも注がれているのです。

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