2026年1月21日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 30:1~31

サムエル記上 30:1-31

 アキシュの護衛の長としてガトの軍隊と共に出陣したダビデは、結局イスラエル軍と戦わずに帰ることとなりました。どうにもならないと思えた難題は、予想だにしなかった展開により解決されました。アキシュを除いたペリシテの武将たちの間に、ダビデを同行させることに対する反対が起こったのです。アキシュはダビデに対しツィクラグに戻るようまことに申し訳なさげに要請します。このチャンスをダビデは見逃しません。「わたしが何をしたとおっしゃるのですか。あなたに仕えた日から今日までに、どのような間違いが僕にあって、わが主君、王の敵と戦うために出てはならないというのでしょう」(29:8)と言ってごねて見せます。しっかりとアキシュに貸しを作って、意気揚々とツィクラグに帰って行ったのでした。

 しかし、主は単にダビデを困窮から救おうとしておられたのではありません。主は、ダビデをイスラエルの王とするために事を進めておられるのです。ですから、そのためにダビデは整えられなくてはならないのです。彼はツィクラグに帰るのではなく、主に立ち帰らなくてはならないのです。そのために主はその道筋を既に準備をしておられたのでした。ダビデたちがツィクラグに戻って来ると、なんとその町はアマレク人によって略奪され、焼き払われていたのです。

 ダビデは悲しみのどん底に突き落とされました。いや、それだけではありません。彼は絶体絶命の窮地に追い込まれたのです。なぜなら兵士たちは皆、こうなったのはダビデの失策であると考えたからです。そもそもアマレク人を襲うようなことをしなければ、こんなことにはならなかった!そう思った兵士たちは、ダビデを石で打ち殺そうと言い出しました。

 ダビデは苦しみます。もはやどこにも助けを求めることができません。しかし、その時こそまさにダビデが主に立ち帰るべき時だったのです。そして、ダビデは主に立ち帰ったのでした。聖書はこう記しています。「ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした」(6節)と。「その神」とは「彼の神」ということです。ダビデは再び主を「わが神」として求めたのです。

 そこで久しぶりに祭司アビアタルが登場します。23章において、信仰によってケイラを助けに行った時以来の登場です。あのケイラを助けた時と同じように、ダビデは彼にエフォドを持ってくるように求めます。ダビデはまことに主に寄り頼んでこのことをしたのです。それは状況を考えればよく分かります。ダビデと兵士たちの家族は連れ去られてしまったのです。今、どうなっているかさえ分からないのです。このような時、人は絶望するか、一刻も早くなんとかせねばと浮き足立つかのいずれかでしょう。しかも、先に述べたように、ダビデを石で打ち殺そうという動きがあるのです。そのような時に、あえてダビデは託宣を求めたのです。

 祭司がウリムとトンミムをもって主の言葉を求めるのは、即席のことではありません。ある程度の時間がかかる。それでもなお主の言葉を求めたのです。しかも、ダビデは、「追跡すべきでしょうか」と問うたのです。「追跡するな」という答えが返ってきたらどうするのでしょう。しかし、主の託宣を求めるからには、その託宣に従うつもりで求めたのです。もし主の答えが「追跡するな」であったなら、そこでダビデは確実に石で打たれて殺されることでしょう。

 主の答えは「追跡せよ」でした。その答えを聞いて、彼らは出立します。途中ベソル川に着くと落伍者が200人ほど出ました。彼らはアフェクから帰って来たばかりですから、確かに疲れていたに違いありません。しかし、いくら疲れていたとはいえ、家族を奪われた兵士たちの中に落伍者が出たというのは余程のことです。彼らがいかに急いで行軍していたかということが分かります。それは当然のことと言えば当然です。

 しかし、その途中において彼らは死にかけている一人のエジプト人に出会うのです。なんとダビデは、その男にパンと水、干しいちじくと干しぶどうを与えて食べさせるのです。ダビデはその時点では、まだ彼がアマレク人の奴隷であることを知っていません。ダビデが彼に何者かを尋ねるのはその後です。要するに、ここに書かれているのは、この急いでいる時に見知らぬ一人の外国人を助けたというだけの話です。

 なぜ助けようと思ったのか、その理由は定かではありません。憐れみを示すことが主の御心だと信じたのでしょう。しかし、いずれにせよ、この一人のエジプト人奴隷を助けたことが、決定的な意味を持つことになるのです。

 助けられたその男は、なんとアマレク人の元奴隷だったのです。しかし、三日前に病気にかかり、主人に捨てられて野に倒れていたのです。今回の略奪においてアマレク人たちは大勢の奴隷を得たのですから、病気になって足手まといになる奴隷など必要ないと考えたのでしょう。しかし、この奴隷が回復した時に、ダビデを略奪隊のもとに案内することになるのです。その結果、ダビデと兵士たちは略奪隊に追いつき、彼らを討ち、奪われた家族を取り戻すこととなるのです。

 「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる」。そう主は言われました。しかし、そのことが実現するための鍵を握っていたのは、足手まといにしかならなかった一人の死にかけた病人だったのです。アマレク人は彼を捨てました。役に立たない者、足手まといになる者は切り捨てていく。それは合理的な考え方であり、この世界はその原理で動いているのでしょう。一方、ダビデたちは彼に食べさせました。それは、緊急時であることを考えるなら、極めて時間の無駄であるし、食料の無駄のように見えるのです。しかし、この違いが事を決したのです。

 「救出できる」。これは神の御心です。そして、私たちは神の御心ならば何の障害もなく最短距離で実現すると思ってしまいやすいものです。しかし、聖書において、神の御心は、しばしば一見無駄と思えることを通して、周り道をしながら、実現していくのです。それまで無駄に思えたこと、周り道と思えたことが、後には決定的な意味を持つのです。

 かのエジプト人がダビデを案内していくと、アマレク人らは辺り一面に広がってお祭り騒ぎをしていました。ペリシテ軍もイスラエル軍も戦争のために出払ってしまっているのですから、まさか誰かが追ってこようなどとは夢にも思っていなかったはずです。

 ダビデたちは、完全に油断していたアマレク人を討って、アマレク人が奪って行ったものをすべて取り戻し、二人の妻も救い出したのでした。18節以下には、彼らが何も失わなかった事実が繰り返されています。この一連の出来事は、ダビデが主に立ち帰るための神の配慮に満ちた計画であることが、ここに強調されているのです。

 いや、何も失わなかっただけでなく、多くの戦利品を彼らは得たのでした。彼らは家畜の群れを引きながら、やがてベソル川にとどまっていた二百人の兵のもとに戻ってきます。そこである者たちが言いました。「彼らは我々と共に行かなかったのだ。我々が取り戻した戦利品を与える必要はない」(22節)。彼らはそれらをあくまでも自分たちが戦って得たものだと主張するのです。そのように思っている人は、戦わなかった者に与えようとはしないでしょう。

 しかし、ダビデはそう言いません。「主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。…皆、同じように分け合うのだ」(23節)と彼は言うのです。このことは後に慣例となったことが記されておりますが、ダビデのしたことは基本的には民数記31:26以下において主がモーセに命じられたことと同じです。そこにはこう書かれています。「あなたは、祭司エルアザルと共同体の家長たちと共に、捕虜として分捕った人間と家畜の数を調べ、分捕ったものを戦いに出た勇士と共同体全体とに折半しなさい」(民数記31:26-27)。主は戦いに出た者たちだけのことを考えておられるのではありません。戦いに出なかった他の者たちもまた、主の御心においては意味を持っているのです。

 ところで「戦利品を与える必要はない」と主張した人々がここで「ならず者」と呼ばれていることには意味があろうと思います。これはもともとは「無価値な者」という意味の言葉です。彼らは戦いに出なかった者をこの戦いにおいては無価値な者と見なしたのでした。しかし、そのように見なす者をむしろ聖書は「無価値な者」と呼んでいるのです。無価値に見えるものが実はどれほど大きな意味を持つかは、アマレク人に捨てられた奴隷がすべての鍵を握っていたという事実において既に見てきました。神の御計画におけるこの逆説を見落として、ただ合理的に生きようとする者は、本当の意味で「無価値な者」となってしまうのです。

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