2026年1月7日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 28:1~25

サムエル記上 28:1-25

 前回は12月17日でした。少し間があいたので、前回の箇所を少し振り返っておきましょう。

 前回は27章をお読みしました。そこにはダビデがペリシテの地に逃れたことが伝えられています。それはダビデが恐れに捕らわれ、「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない」と考えたからでした。かつては、サウルを殺すことのできる絶好の機会においてさえ、主を畏れるゆえにサウルに手を降さなかったダビデでした。それは主に徹底して信頼する姿でもありました。しかし、そのダビデが、主の御心に従ってではなく、恐れに駆られた自分の心と語り合いながら(「心に思った」は直訳では「自分の心に言った」)、ガトの王アキシュのもとに身を寄せたのでした。

 以前に身を隠してアキシュのもとに逃れた時と事情が違います。今はサウルの敵対者として知れ渡っています。しかも、ダビデのもとには六百人の兵士がいるのです。彼らが強力な傭兵部隊として優遇されることは明らかでした。ダビデはしたたかに計算してまずは地方の小さな町ツィクラグを得てアキシュとある距離を保ち、しかし、もう一方で周辺諸民族を襲いながらあたかもイスラエルの町々を襲ってきたかのように振る舞って、完全にアキシュの信用を獲得したのでした。そこまでは完全にダビデの計算どおりだったのです。

 しかし、28章に入りますと、イスラエル軍とペリシテ軍は全面戦争に突入することとなります。アキシュはダビデに言いました。「あなたもあなたの兵もわたしと一緒に戦陣に加わることを、よく承知していてもらいたい。」ダビデは苦し紛れに、「それによって、僕の働きがお分かりになるでしょう」と返答します。しかし、あまりにもアキシュに信頼されたダビデは、アキシュの護衛の長に抜擢されることとなるのです。こうなっては現実にイスラエルの人々と戦わなくてはなりません。たいへん困ったことになりました。さあ、ダビデよ、どうする。――ということで、続きはまた来週。物語は28:2から29:1へと続きます。

 今日は主に3節以下のエピソードに心を向けたいと思います。これは別の話として挿入されている部分です。実は話は前後していまして、この部分はペリシテとイスラエルの戦争がかなり進んだ時の話なのです。

 4節に「ペリシテ人は集結し、シュネムに陣を敷いた。サウルはイスラエルの全軍を集めてギルボアに陣を敷いた」と書かれていますでしょう。このギルボア山においてサウルは最終的に戦死することになるのです。つまりこれはイスラエル軍が完全に包囲され追い詰められつつある時、壊滅は時間の問題である時点の話なのです。5節の「サウルはペリシテの陣営を見て恐れ、その心はひどくおののいた」というのは以上のような状況を語っているのです。

 その絶望的状況において、サウルは主の託宣を求めます。しかし、「主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった」(6節)と語られているのです。そこでサウルはエン・ドルの口寄せを尋ねました。それが今日の箇所の伝えている出来事です。サウルの戦死の場面を除くと、このまことに哀れな姿が、私たちの見るサウルの最後の姿となります。私たちはそのことの意味をよく考えねばなりません。

 サウルが最後に依り頼んだ「口寄せ」は律法において他の異教的習慣と共に神の忌み嫌われる行為とされております(申命記18:9-14)。ご存じのように申命記は「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:5)と命じています。イスラエルにおいて主なる神との関係は、神の救いの恵みに対して神の民が愛と信頼と従順において応えるという人格的な結びつきです。それゆえ、「神を愛する」という概念のない周辺世界の習慣を取り入れることは、それがどんなに霊的・神秘的な行為であっても、本来あるべき神と民との関係を壊すことにしかならないのです。

 サウルは既に国内から口寄せや魔術師を追放しておりました。それ自体は律法にかなったことと言えるでしょう。しかし、最終的に自ら追放した口寄せのもとを訪れなくてはならなかったことに、サウルの問題の深さを思わされます。

 彼が口寄せのもとを訪れたのは、主が語られなかったからです。主はウリムにより語られませんでした。ウリムは祭司の用いるくじのようなものです。しかし、そもそもサウルは祭司の町そのものを滅ぼしてしまったのです(22章)。そのようなサウルがウリムを通して主の言葉を得られようはずがありません。

 また、主は預言者を通しても語られませんでした。しかし、そもそもサウルは預言者でもあったサムエルの言葉に耳を傾けることなく、サムエルが死ぬまで彼と対立関係にあったのです。そのようなサウルが預言者を通して主の言葉を得られようはずがありません。

 要するに、彼は絶対君主であり続けるために、祭司と預言者を退け、神の言葉を退けてきたのです。人が神の言葉を軽んじ、神の語りかけと働きかけを拒否するならば、最終的に神の言葉を必要とした時に、もはや神は語り給わない。この出来事は、後に預言者アモスが「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」(アモス8:11)について語ったことを思い起こさせます。神の恵みが与えられているときに、それを恵みとして受け取ることは、いかに大事なことでしょうか。

 さて、主の言葉を得ることのできないサウルは、夜、変装し、二人の兵を連れて口寄せの女のもとに赴きます。その後の一連の描写はすべて、問題はサウルと神との関係にあることを示しています。

 サウルが口寄せの術で占って欲しいと願うと女は答えました。「サウルは口寄せと魔術師をこの地から断ちました。なぜ、わたしの命を罠にかけ、わたしを殺そうとするのですか」。すると、サウルは《主にかけて女に誓った》のです。「主は生きておられる。この事であなたが咎を負うことは決してない」(10節)と。

 しかし、サウルの言葉のように、「主が生きておられる」ならば、本来、この女は咎を負うことになるのです。また、サウルも咎を負うことになるのです。「主が生きておられる」ならば、咎を負うか負わないかはサウルが決めることではないからです。にもかかわらず、ここでサウルは、神が罪と定めることを罪ではないものとし、それをを行うために、「主は生きておられる」と言って、主の名によって誓いさえするのです。

 サウルが求めたのは、サムエルを呼び起こすことでした。女は乞われるままにサムエルを呼び起こし、また同時に依頼主がサウルであることを悟ります。その後のサムエルとサウルのやりとりは、聖書の中においては極めて特異な場面です。この箇所においては、サウルが最終的に異教的習慣に頼らざるを得なかったことに重点があるのです。なので、この箇所を「口寄せ」や「霊媒行為」が可能であることの裏付けとすることは正しいことではありませんし、ここで呼び起こされたのが本当にサムエルであるか否かという議論は大して意味がありません。

 そのように異教的な行為が用いられる特殊な場面なのですが、本当に注目すべき重要な事柄はその対話の内容です。サムエルとサウルの両者共に認めていることがあるのです。サウルは「神はわたしを離れ去り…」と言います。サムエルはさらに「主があなたを離れ去り、敵となられたのだ」と語ります。まさに両者が認めているその事実こそが問題の核心だったのです。

 しかし、サウルにとってそれは単に《困ったこと》でしかないのです。ですからサムエルに為すべきことを聞いて解決しようとするのです。サムエルはそれに対して、何がそのことをもたらしたのかを語ります。「あなたは主の声を聞かず、アマレク人に対する主の憤りの業を遂行しなかったので、主はこの日、あなたに対してこのようにされるのだ」。ここで語られているのは、直接的には15章の出来事です。しかし、私たちは一つの失敗がサウルの人生を崩壊させたかのように考えてはなりません。結局、その一事に現れたサウルと主との関係は、彼の人生そのものを貫いているのです。すなわち、「あなたは主の声を聞かず」ということです。

 サムエルはさらに、「主はあなたのみならず、イスラエルをもペリシテ人の手に渡される」と語りました。この言葉は「主は敵をあなたの手に渡される」という《主の戦い》において繰り返し語られてきた定型的な言い回しと同じです。ただし、渡されるのは敵ではなくてサウルとイスラエルなのです。神の言葉に対する拒否は、自分のみならず周りの人々をも巻き込んでしまうのです。その現実を私たちはしっかりと聞き取らねばなりません。そして、同時に、今こうして主が私たちを見捨てることなく、離れることなく、御言葉を与えていてくださることが、どれほど大きな恵みであるかを知る必要があるのでしょう。私たちはこの恵みを恵みとして受け止め、この与えられている恵みの時を大切にしなくてはならないのです。 

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