サムエル記上 29:1-11
サムエル記29章は28章2節に続きます。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない」と思ったダビデはガトの王アキシュのもとに身を寄せました。既にサウルの敵として知れ渡っているダビデはアキシュに快く迎え入れられました。ダビデはそんなアキシュの信用を得るために、アマレク人などイスラエルの周辺民族を襲っては、あたかもユダの町々を襲ってきたかのように偽りの報告をします。ダビデはアキシュから信頼されるようになり、完全に身の安全を確保することができました。すべてダビデの計算通りでした。
しかし、やがてペリシテとイスラエルは全面戦争に突入することとなりました。ガトの軍隊が出陣するに当たり、アキシュはダビデと兵士たちに戦陣に加わるようにと要請します。「あなたもあなたの兵もわたしと一緒に戦陣に加わることを、よく承知していてもらいたい」(28:1)。ダビデはついに自らイスラエルの民と戦わざるを得ないところに追い込まれました。彼は苦し紛れに答えます。「それによって、僕の働きがお分かりになるでしょう。」この言葉によってダビデは墓穴を掘ることになりました。ダビデはアキシュの護衛の長に抜擢されることとなるのです。もはや戦いを逃れることはできません。
ペリシテ人の主要五都市の軍隊はアフェクに集結することになりました。ダビデの軍隊もアキシュと共に、アフェクに上ります。五都市の内、ガトの軍隊は最後尾を行軍することとなりました。そのしんがりにアキシュと共に行軍することとなったのが護衛の長であるダビデとその兵士たちでした。しんがりは背後から敵が臨んだ時に全軍を守る重要な位置です。そのような位置に兵士たちが置かれたことは、アキシュがいかにダビデたちを信頼していたかを示します。
もはやダビデたちが戦列を離れることは不可能でした。しかし、その不可避と思われたダビデの参戦が、なんと思いがけない仕方で回避されることになるのです。それはダビデが画策したことではありませんでした。全く予想もしない仕方で外から起こったことでした。
他の都市の武将たちが、ガトの軍に混ざっているヘブライ人に目を留めます。アキシュが、ダビデであることを説明します。そこでこの問題を巡ってアキシュと他の四都市の武将たちの間に分争が生じました。これはダビデという存在をどう見るかということの対立でした。他の四都市はダビデを信用しようとはしなかったのです。
アキシュと他の武将たちの見方が違ったのは、ある意味では仕方のないことでした。既に見てきたように、ダビデの名を一躍有名にしたのは、言うまでもなくゴリアトとの対決です。そのダビデの勝利と、それに伴うペリシテ軍の敗退がいかに広く言い伝えられていたかは、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という歌が繰り返しペリシテ人の口に上ることから分かります。
あの敗北において、最も大きな打撃を受けたのは、もちろんゴリアトを出したガトであったと思います。ダビデを最も恐れたのはガトの人々であったことは疑うべくもありません。しかし、そのダビデがサウルに反旗を翻した(これは事実ではありませんが)というニュースが届き、そのダビデがガトに身を寄せてきたのですから、ガトのアキシュにとってはまさに願ってもないことだったのです。しかも、彼は二年の間、少なくともアキシュの目からみて忠実に仕えてきたのです。当然、大きな戦力となると考えたことでしょう。
しかし、当然のことながら他の武将たちの見方はずっと冷めているのです。彼らはダビデと兵士たちが裏切る可能性を冷静に考えていました。彼らの主張は根拠のないことではありません。かつてイスラエルと戦った時、ペリシテ軍が不利になった時に裏切ってイスラエル軍についた者たちがいたのです(14:21)。このことも苦々しい出来事として記憶されていたであろうと思います。
結局、4対1で、アキシュの主張は退けられることとなりました。ダビデはツィクラグに戻されることとなったのです。こうして、ダビデがイスラエルと戦うことは回避されました。ここに主の名は一度も上っていません。判断を下しているのはペリシテ人です。しかし、その背後に主の働きがあり、主がダビデを助けられたことを明らかにこの物語は伝えているのです。なぜならこれは主の約束の実現に関わっているからです。
論理的に考えて、ダビデにはもともと二つの選択肢しかありませんでした。イスラエルと戦うか反旗を翻してペリシテ人と戦うかです。イスラエルと戦うならば、ダビデはサウルやヨナタンと戦わざるを得ないばかりでなく、王となるという神の約束をも失うことになります。ペリシテ軍に加わって全イスラエルに敵対した人物を、イスラエルが王として承認するはずがないからです。
一方、ペリシテ人と戦うならば、サウルやヨナタンがギルボア山上で戦死していることを考えると、ダビデと兵士もまた共に玉砕することは免れなかったであろうと思います。このいずれにしても、ダビデは王とは成り得ないのです。しかし、主は御自分の約束への真実のゆえに、ダビデに第三の道を備えられたのでした。しかも、ペリシテ人を用いてこれを実現したのです。
しかし、ダビデがそのことを認識したかどうかはまた別の話です。どうもこの箇所を見るかぎり、ダビデは主がなさっていることを分かってはいません。その後のアキシュとダビデとのやりとりはユーモラスでもありますし、また騙されているアキシュのあまりの純朴さに、同情さえ覚えます。
アキシュがどれほどダビデに気を使ったかは、「主は生きておられる」という言葉からはじめていることにも表れています。アキシュはダビデを「まっすぐな人間」と呼び、「何ら悪意は見られなかった」と言います。そして、さらに「お前は神の御使いのように良い人間だ」とまで言うのです。
ダビデがしてきたことは、このお人好しを騙し続けることでした。ダビデは策士であり役者です。アキシュの言葉に恥じ入ることはありません。むしろ、「わたしが何をしたとおっしゃるのですか。あなたに仕えた日から今日までに、どのような間違いが僕にあって、わが主君、王の敵と戦うために出てはならないというのでしょう」と言い返しているのです。そう言いながら、心の中では舌を出していたに違いないのです。すべてはうまくいきました。しかも、アキシュに貸しまで作り、信用をさらに深めて意気揚々とツィクラグに帰っていくのです。
しかし、主はダビデを単なるずる賢い成功者に留めることを良しとはされませんでした。主はダビデを成功者にしようとしているのではなくて、神の民イスラエルの王にしようとしておられるのです。主はただダビデを助けてピンチを切り抜けさせるために、すべてのことなさったのではないのです。そうではなくて、主は御自分の計画を実現させようとしてこれらすべてのことをなさったのです。
ならば、ダビデは成功者としてツィクラグに帰るのではなくて、主に帰らなくてはなりません。その道を主は用意しておられました。それが次回お読みする30章の冒頭に書かれている出来事です。今日の箇所と関係するので、そこだけを前もって見ておきましょう。
主がそのために用意したのは、なんと焼き払われたツィクラグの町だったのです。そこに主の御手があったことは、「一人も殺さずに捕らえて引いて行った」とあえて書かれていることから分かります。これが後の出来事と深い関係にあるのです。ダビデは悲しみの底に突き落とされました。しかし、それだけではありません。一転して窮地に追い込まれることとなったのです。なぜなら、兵士たちはすべてをダビデの失策のゆえであると判断したからです。
アマレク人などを襲ったこと。アキシュを騙したこと。ダビデの賢い画策が、一転して災いとなってダビデの頭上に返ってきたのでした。ダビデは兵士たちから憎まれることになりました。「兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出した」(30:6)と書かれています。ダビデは苦しみました。もはやどこにも帰るところはありません。そのようにしてダビデは主に帰ります。主以外に頼るべき御方がいなかったからです。そして聖書はこう記しているのです。「ダビデはその神、主によって力を奮い起こした」(同)と。