サムエル記上 17:1‐30
16章で初めてこの物語の中にダビデが登場してきました。彼はサムエルに油を注がれ、将来の王として密かに任職されます。やがてこのダビデがサウルに代わってイスラエルの王となるのです。そのダビデがサウルと初めて出会った次第が16章に書かれていました。ダビデは竪琴の名手として、悪霊に苦しむサウルを癒すために召し抱えられるのです。
しかし、サウルとダビデの出会いを伝えるエピソードはそれだけではなく、他にも幾つかの話が伝えられていたようです。今日お読みした17章において取り上げられているのは、まったく別のエピソードです。ですので、16章とは若干の食い違いが出てきます。16:18では「勇敢な戦士で戦術の心得もあり」と紹介されていますが、17章ではまだ戦いを知らぬ少年として描かれています(17:33)。また、17:58では、ここで初めてサウルがダビデに出会うものとされています。このような食い違いは、複数のエピソードが並べられている時によくあることなので、さほど気にする必要はありません。
さて、この章で中心となりますのは、巨大なペリシテの戦士ゴリアトとダビデとの一騎打ちです。ゴリアトについては、ガト出身で、背丈は6アンマ半(約3メートル)、身には青銅五千シェケル(約57キログラム)の鎧を着、穂先が六百シェケル(約7キログラム)もある槍を振り回す大男として紹介されています。この男の存在は、以前にペリシテの軍隊について「…兵士は海辺の砂のように多かった」(13:5)と書かれていたのと同様に、いかにペリシテ人との戦いが困難を極めていたかということを表しています。
ゴリアトはイスラエルの戦列に向かって叫びます。「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ」(10節)。このような戦い方は、今日の私たちには馴染みがありません。実は、イスラエルにとっても、このような戦い方は一般的ではなかったようで、聖書にはこの他に出てこないのです。恐らく、イスラエルは相当戸惑ったに違いありません。
しかし、このような状況において、相手の挑戦に応じないということは、明らかに既に敗北を意味しておりました。何度も現れて一騎打ちを呼びかけるというのは、近代兵器による戦争と比較しますと、何とものんびりした話しですが、実際には国家の明暗を分ける危機的状況にあるわけです。そのような危機にあって、サウルはどうしていたでしょうか。「サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた」(11節)と聖書は記しているのです。
このサウルの姿と、11章以下において戦いを導いているサウルの姿とは、極めて異なっていることが分かります。そして、そのサウルの二つの姿の間には、サウルの神に対する不従順の現れた出来事(13章、15章)が記され、主の霊がサウルを離れた(16:14)という決定的な記述がなされているのです。サウルが王となり勇者であり得たのは、全く神の霊によったのであって、神を離れるならば(そして神が離れるならば)、同じサウルではあり得ないのです。そのように決定的に重要なのは、本人の能力や勇気などではなく、神との関係なのだということが全体を通して語られていると言ってよいでしょう。
まことに昨日の勇者が今日の勇者とは限りません。過去の成功は、今日の働きを保証するものではありません。これは王という特殊な職務だけではなく、今日におけるキリスト者のいかなる働きについても言えるでしょう。大事なのは神との関係です。そして、神との関係において大事なのは昨日のことではなくて、今日であり、今なのです。
さて、そんなある日、エッサイはダビデに、炒り麦とパンとを陣営にいる三人の兄たちに渡し、千人隊の長にチーズ十個を渡すようにと言付けて、使いにやりました。ダビデは陣営に着くと、持参したものを武具の番人に託し、戦列に走って行って兄たちの安否を尋ねます。すると、そこにゴリアトが現れて、いつもの言葉を叫びました。ダビデはこの言葉を耳にします。その時、再び、「イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた」(24節)と書かれています。イスラエル兵たちは、ゴリアトを討ち取った者に王の賜る褒美について語り合っていました。しかし、誰も恐れて挑戦に応じる者はいません。すると、ダビデが周りの兵士たちに尋ねました。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」(26節)。
これを聞いた長兄エリアブは腹を立てました。それはそうでしょう。彼らが戦いに出たのは昨日今日の話しではないのです。確かにゴリアト一人に恐れをなして怖じ気づいている姿は戦士としては情けないものかもしれません。しかし、彼らは彼らなりに命がけで戦って来たのです。そして今、ゴリアトに立ち向かえないことについても、エリアブなりに苦しんできたのです。そこにいきなり現れた戦ったこともない少年が「あのペリシテ人を打ち倒したら何をしてもらえるのですか」などと言っているのですから、腹を立てるのも無理はありません。それはダビデの思い上がりにしか見えなかったのです。「お前の思い上がりと野心はわたしが知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう」と言ってエリアブはダビデを叱ります。
確かにダビデの言葉には、王の与える褒美に関心を示す単純な無邪気さがあります。しかし、それはエリアブが言うように、単なる思い上がりや野心などではありませんでした。この少年の無邪気な発言にこそ、王制になってこのかた、人々がついぞ忘れていたイスラエル本来の言葉、信仰の言葉があったのです。「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」。ゴリアトが「わたしはイスラエルの戦列に挑戦する」と言うのに対して、ダビデはそれを「生ける神の戦列」と言い換えているのです。ダビデにとって、この戦いはあくまでも生ける神の戦いなのです。
彼の内にあった確信は、この章の後半において当のゴリアトに対する宣言の中にはっきりと現れています。「「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」(45‐47節)。兵士たちが皆恐れに取りつかれているその時、本当に彼らが聞くべき言葉はこのダビデの言葉であったのです。
このように、神に目を向け、戦いの本質に目を向けていたのは、戦いの最前線にいた兵士たちや王ではなく、戦いから遠くいるように見える、まったく戦力にならないような少年であったという記述は、示唆に富んでいます。自分は一生懸命にやっている。自分は必死で頑張ってきた。事実自分の力をもって困難を乗り越えてきた。そう思っている人の目には、いつの間にか立ちはだかる困難とそこに立ち向かう自分自身しか映らなくなります。ちょうど、これまで最前線において戦ってきた兵士たちの目にゴリアトの巨大さと自軍の非力さしか映っていなかったようにです。
そして、自力では到底太刀打ちできそうになければ、恐れおののき、自分の無力さを思ってうなだれるしかありません。そのような時に、信仰の言葉は腹立たしく聞こえるものです。特に、それが年若い者や経験の浅い者の口から聞こえてくるならば、まことに腹立たしく思える。現実を知りもしないで、経験もないくせに、と。
しかし、実は最前線にいない者の方が、戦いの本質が見えているということがあるのです。そこには敵と自分だけがいるのではなくて、神様がおられるのだということが見えている。往々にして、本当に耳を傾けるべき言葉は、普段目につかない背後にいる人々や、まだ前線に出ていない子供たちの素朴な信仰の声の中にこそあるものです。