2025年9月14日日曜日

「あなたの願いは何ですか」

2025年9月14日 主日礼拝説教 

聖書:列王記上 3:4-15

主を愛するソロモン
 本日の第一ロウソクは、次のような言葉から始まっていました。「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)。

 「聖なる高台」という言葉が出てきました。その「聖なる高台」とは、当時のイスラエルにいくつもあった聖所、すなわち礼拝の場所です。その礼拝の場所は、イスラエルの人たちが「ここを聖所にしましょう」と言って決めたのではありません。実は、その土地にイスラエルの人たちが入ってくる前からその場所は先住民の聖所だったのです。つまり元々土着の宗教の神々が礼拝されていた場所だったのです。そのような「聖なる高台」がギブオンだけでなく、他にもたくさんあったわけです。

 もともとあった土着の宗教の神々は「バアル」と呼ばれていました。「バアル」とは「主人」という意味の言葉です。各地の「聖なる高台」においては、その土地の「バアル(主人)」が礼拝されていたのです。そこにおいて行われていたのは、日本の各地においても見ることのできるような、穀物の豊作を願い、また家畜の多産を願っての祭儀でした。要するに、人々はそこで繁栄を願って犠牲をささげたのです。富と栄光を願って、戦いがあるならば勝利を願って、犠牲をささげたのです。今日の聖書箇所に出てくる「聖なる高台」とは、もともとそのような場所だったのです。

 そのような数ある「聖なる高台」の中でも、特に重要な「聖なる高台」があるギブオンにソロモンという王様が行って犠牲をささげたというのが今日の話です。「ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)と書かれていました。「一千頭」というのは極端です。これは文字通りの意味ではなく、「非常に多くの」という意味だと思われます。ともかくソロモンは多くの動物を犠牲として祭壇にささげました。

 豊穣多産を願い、御利益を願っての礼拝であるならば、そこで犠牲をささげるのは願っているものを与えてもらうためでしょう。その意味では、もともと「聖なる高台」で行われていたのは神々との取り引きであると言うことができます。得るものがあるからこそ献げるのです。バアル(主人)とは呼んでいますが、彼らが愛しているのは主人ではありません。そうではなく、結果として得られる豊作であり繁栄です。バアルを愛しているのではなく、バアルが与えてくれるものを愛しているのです。

 ソロモンもまた聖なる高台で莫大な量の犠牲をささげました。外から見れば、豊穣多産を願っての祭儀と変わらないかもしれません。しかし、実はギブオンに上った今日の話の直前にこう書かれているのです。「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」(3節)。ソロモンは主を愛していた。ソロモンが献げる犠牲と礼拝は、主との取り引きではなかったのです。それは主を愛するゆえの礼拝であり、献げ物だったのです。

 そのことが明らかに示されているのが、続くエピソードです。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう』と言われた」(5節)。そこでソロモンは知恵を求めたという有名な話です。

ソロモンの願い
 「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」。そのように主なる神は「与えてくださる方」として御自身を表されました。確かに聖書が私たちに伝えている主なる神はそのような御方です。聖書は、人間が願い求め、神が与えてくださった、という話に満ちています。

 それゆえに、イエス・キリストも言っておられました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7‐8)。さらには「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(同11節)と言っておられるのです。

 神は与えてくださる御方です。しかし、だからこそ、その神に何を願うかが大事になってくるのでしょう。私たちの「願い」に、私たちの内にあるものが現れてくるからです。いったい神に何を願うのか。いや、個々の願いというよりも、そもそもどのような願いを持って生きているのか。神の御前においては、そのことが問われるのです。いったい私たちは、どのような願いを持って生きているのでしょうか。今こうして私たちがしているように、私たちが神に向かうならば、もう一方で私たちの生き方そのものが問われるのです。いったい何を求めて生きているのか、と。

 さて、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたソロモンはどう答えたのでしょうか。彼は言いました。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」(6‐9節)。

 ソロモンの答えに繰り返されている言葉があります。「僕」という言葉です。日本語訳では分かりにくいのですが、実はすべて「あなたの僕」と書かれているのです。ソロモンの父、先代の王ダビデがまず「あなたの僕、わたしの父ダビデ」と呼ばれています。ダビデ王は、忠実に、憐れみ深く正しい心をもって、主の僕として歩んだ。そのような王座をソロモンは引き継いだのです。それがソロモンの自覚でした。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(あなたの僕)をお立てになりました」と。

 そしてもう一つ繰り返されている言葉があります。「あなたの民」という言葉です。「僕はあなたのお選びになった民の中にいますが」(8節)とありますが、これも原文では「僕はあなたのお選びになったあなたの民の中にいますが」と書かれているのです。ソロモン王にとって国民は「あなたの民」なのです。「わたしの民」ではないのです。つまりソロモンが王であるということは、主から国民を託されたのであって、ソロモンは主の僕としてその務めに携わっているに過ぎないのです。

 ソロモンがここで口にしている願いはそのような文脈で理解する必要があります。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」。何のためですか。主の僕として生きるためです。主により良くお仕えするためです。主の僕として、主から託されたことを全うするためです。「そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」。そう言ってソロモンは求めたのです。

 それは夢の中での出来事でした。しかし、夢の中でそのように答えたということは、それが常日頃の願いであったことを意味するのでしょう。主により良くお仕えするためには何が必要なのだろう。主から託された務めを果たすためには、わたしに何が必要なのだろう。そのことをソロモンは常に考え続けてきたのです。あるいは、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と主から言われる以前から、それは彼の絶えざる願いであり祈りでもあったのかもしれません。

神の答え
 このソロモンの願いを主は喜ばれ、こう言われました。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(11‐14節)。

 ソロモンが献げた犠牲は、かつて同じ聖なる高台で富と栄光を求めてバアルの神にささげられたものと同じではありませんでした。ギブオンにおいてソロモンが夥しい焼き尽くす献げ物をささげた時、彼が願い求めていたのは長寿でも富でも敵の命でもなかったのです。繰り返しますが、王であるソロモンが願い求めていたのは主の僕として主に仕えて生きることだったのです。主の僕として与えられた人生を全うすることだったのです。ソロモンの献げ物、ソロモンの礼拝、それは主を愛する者の献げ物であり礼拝でした。

 かくして主はソロモンが願い求めたとおり「知恵に満ちた賢明な心」を与えると約束されました。さらには、願い求めなかったもの、富と栄光をも与えると約束されました。そして物語は、主が約束されたとおりに豊かにソロモンに与えられたことを伝えています。

 そして、その御方は私たちの神、私たちの天の父でもあります。かつて夢の中において「何事でも願うがよい」と言われた神は、ここにいる私たちには、夢によってではなく、イエス・キリストを通して、また使徒たちを通して、願いなさい、求めなさい、祈りなさいと言ってくださいました。だからこそその御方の御前で何を願うかが重要になってまいります。何を願って生きているかが重要になってくるのです。ここで主を共に礼拝している私たちは、神の御前において、いったいいかなる願いを持って生きているのでしょうか。

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