2025年9月17日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 17:31~58

 サムエル記上 17:31‐58

 先週、「この章で中心となりますのは、巨大なペリシテの戦士ゴリアトとダビデとの一騎打ちです」と申しました。しかし、これには若干の説明を加えなくてはなりません。今日お読みしましたところから分かりますように、戦いの場面そのものは長くありません。勝負はあっけなく決まってしまいます。ですから、ここで単にダビデやイスラエル軍の勝利を語ろうとしているのではないことは明らかです。むしろ長々と書かれていますのは、その戦いに至るまでの経緯です。特に、ダビデが多くの言葉を語ります。そこに私たちは注目なくてはなりません。

 前回はダビデがサウルの陣営に行ったところまでお読みしました。彼が戦場に出向いたのはそもそも戦うためではありませんでした。戦いに出ている兄たちに炒り麦とパンを届け、安否を確かめるためだったのです。彼が持参したものを武具の番人に託し、戦列の方に走って行って兄たちの安否を尋ねていると、折しもゴリアトが現れて「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ」といういつもの言葉を叫びます。それを聞いてイスラエルの兵は後退し、甚だしく恐れているのをダビデは目の当たりにします。

 そして、彼は周りに立っている兵にこう言ったのでした。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」(26節)。これを聞いて長兄のエリアブは非常に怒りました。無理ありません。戦いの経験もない者が思い上がっているようにしか見えなかったのです。

 しかし、ダビデの語ったその言葉を心に留め、サウルの耳に入れる者がありました。サウルとしては、ともかく誰かが挑戦に応じて立ってくれるのを待ちわびていたわけですから、すぐさまダビデを召し寄せます。現れたダビデは言いました。「僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう」。しかし、そう口にしているのは、どう考えてもゴリアトと戦うことができるような人物ではありませんでした。サウルは言います。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ」。しかし、ダビデは羊飼いをしてきた自分自身の経験を語り、「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるに違いありません」と答えたのです。

 17章前半に見ましたように、ダビデの言葉は決して彼の思い上がりから出た言葉ではありませんでした。そうではなく、彼は明らかにイスラエルの信仰的な伝統の中に立っているのです。サムエルに至るまで連綿と伝えられてきた「主の戦い」の物語の中に立っているのです。それはまた王国となって後、失われかけていた伝統であり物語でもあったのです。その物語の中に立っているとはどういうことか。ダビデにとって、先祖たちに与えられてきた主による勝利は、単なる昔話ではなかったということです。彼はいにしえの物語を、普段の日常生活の中で、羊飼いとしての生活の中で実際に生きてきたのです。ダビデにとって、確かに主は「生ける神」(26節)なのです。

 ここに私たちはサウルとの決定的な違いを見ることができると言えます。既に見てきたように、サウルは実際に驚くべき勝利を経験していながら、伝統を通して伝えられてきた「生ける神」に目を向けないのです。サムエルに語ったように、それは「あなたの神、主」(15:30)でしかない。一方ダビデは、伝統を通して伝えられてきた神に対して、日常生活の中において素朴に信頼して生きているのです。その信頼こそが彼の行動の源だったのです。

 さて、サウルは「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるに違いありません」というダビデの言葉を聞くと、「行くがよい。主がお前と共におられるように」と言って自分の装束をあてがいます。ダビデの頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせ、サウルの剣を帯びさせました。しかし、ダビデは一旦はそれらを身に着けたものの、「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから」と言って、結局はそれらをサウルに返しました。ダビデはそれらを脱ぎ去りますと、自分の杖を手に取ります。そして、川岸に下って行き、なめらかな石を五つ選んで、羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして出て行ったのでした。

 サウルの装束と剣を返したこと、そして自分の杖を手にして出て行ったことは、サウルがあてがうものが、この戦いにおいて何の役にも立たなかったことを示しています。それはある意味では象徴的な出来事でもありました。サウルが整えていった常備軍は、この戦いにおいては本質的には何の役にも立ってはいないことをも示しているのです。ダビデは武力によって戦うのではないのです。そして、さらに重要なことは、ダビデが戦士として出て行くのではなく、羊飼いとして出て行ったということです。ダビデにとって、公の場における戦いは、神と共に生きる背後の私生活と同一線上にあったということです。「慣れている」必要があるのです。

 こうしてダビデはゴリアトの前に立つこととなりました。ゴリアトは出てきたダビデを見て侮って言います。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか」。こう言って、ペリシテの神々の名によってダビデを呪いました。しかし、ダビデはゴリアトに言い返します。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう」。この長いダビデの台詞には、この場面の中心思想が言い表されていると言って良いでしょう。特に重要なのは47節です。「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」。

 ここで「ここに集まったすべての者」と訳されていますのは、「この全会衆」と訳されてる言葉です。会衆は「カーハール」という言葉です。七十人訳聖書(ギリシア語訳聖書)では「エクレシア」となっています。これは新約聖書では「教会」と訳される言葉です。つまり、これは単にそこにいた者たちという意味ではなくて、神の民全体を指すのです。今こそ、神の民なるイスラエル全体が知らなくてはならないことがある、というのです。それは「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされない」ということです。そして、ダビデは「この戦いは主のものだ」と宣言するのです。

 戦いそのものは、実にあっけなくダビデの勝利に終わります。しかし、先にも言いましたように、ダビデが勝ったこと自体が重要なのではありません。これがイスラエルの民そのものに対して決定的なことを語っている出来事であるということが重要なのです。なぜなら、巨人ゴリアトは、形を変えてイスラエルの民の前に繰り返し現れて来ることになるからです。

 それは預言者たちの時代においては、まさにイスラエルに迫り来る巨大なるアッシリアであり、またバビロニアでありました。この歴史物語が書かれたときには、イスラエルの民はその巨人の手に囚われている状態だったのです。そこにおいて、読者は、自分自身がダビデと声を合わせて、「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされない」と告白できるかどうかが問われていたのです。

 そして、私たちもまた同じことが問われております。私たちの生きるこの世界にも、罪と死の力が、あらゆる形を取って私たちに襲いかかってまいります。そうです、ゴリアトは様々な形で現れてくるのです。しかし、キリストはダビデのように、剣や槍によらずして、人間を支配する罪と死の力に打ち勝たれました。それゆえに、私たちもまた、「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされない」と宣言して生きるのです。


以前の記事