2025年7月23日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 11:1~15

サムエル記上 11:1-15

 11章にはアンモン人との戦いにまつわるエピソードが記されております。アンモン人との戦いは、既に士師記11章において、士師エフタに関しての物語として書かれております。イスラエルの東に位置するこの民とイスラエルとの間には絶えず領土争いがあったものと思われます(士師11:13)。

 アンモン人のナハシュが攻め上ってきて、ギレアドのヤベシュを包囲しました。ギレアドはヨルダンの東側であり、ガド族の地域です。この時代にアンモンがヨルダンの東の地域への侵略を開始したのは、イスラエル全土に対するペリシテの支配によってイスラエルが弱体化していたためと思われます。

 そのような時代に、十二部族の連合体が統一を維持していくのは非常に困難であったに違いありません。既に見てきましたように、サムエルは各地を巡回し、士師としての務めを行っていました。彼が各地を行き巡っていた一つの目的は十二部族の統一を維持することだったのです。

 しかし、サムエルも年老いてイスラエル全体を巡回することはもはや不可能となりました。しかも南部を任せた息子たちの汚職が発覚したことは、すでに見てきたとおりです。しかもペリシテの支配はいよいよ大きくなっていった。そのような時代にサムエルの求心力はかなり衰えていたであろうと思われます。

 このような時に、問題となるのは地理的な分断です。ヨルダン川の西と東では定住した歴史が違います。ヨルダンの東は、ペリシテの影響を大きく受けることはなかったと思われますが、西側との関係が希薄になることには、別の危険がありました。そして、それが現実となったのです。それがこのアンモンの侵略です。アンモン人にとっては、イスラエルの統一が危うくなっているこの時こそ、失地回復の絶対の好機と思ったことでしょう。

 ヤベシュの住民は、当初、アンモンに隷属する契約を結び、その支配下に入って生き延びようといたします。「我々と契約を結んでください。我々はあなたに仕えます」。これは明らかに伝えられてきた神の掟に反することでした。主は言われたのです、「あなたは彼らおよび彼らの神々と契約を結んではならない」(出エジプト23:32)と。しかし、彼らにとって「生き延びること」は、主の掟を守りイスラエルの一部であり続けることよりも、もっと重要なことだったのです。

 しかし、アンモンと契約を結んで生き延びようとする企てはすぐに挫折します。アンモン人が法外な要求を突きつけてきたからです。「お前たちと契約を結ぼう。ただし、お前たち全員の右の目をえぐり出すのが条件だ。それをもって全イスラエルを侮辱しよう」(2節)。右の目をえぐり出されるということは、もはや戦闘能力を失うということを意味しました。そして、それはナハシュが言っているようにイスラエルに対する侮辱をも意味したのです。

 唯一残されているように見えた解決の道が閉ざされてしまいました。そのことによって、彼らは決定的に窮地に立たされました。しかし、聖書にしばしば見るように、人間の目には決定的な危機と見えることこそが、しばしば神の導きの手段として用いられるのです。そのようにして人は本来立ち帰るべきところへと導かれるのです。先に見たように、ヤベシュの住民はイスラエルの一部であることを放棄してでも生き延びようとしました。しかし、その道が断たれた今、彼らは自分たちがイスラエルの一部族であることにもう一度希望を置かざるを得なくなりました。彼らは一縷の望みをかけて、こうアンモン人に答えました。「七日間の猶予をください。イスラエルの全土に使者を立てます。救ってくれる者がいなければ、我々はあなたのもとへ出て行きます」。

 驚いたことに、アンモン人はこの猶予を与えています。アンモン人は、もはやイスラエルが一つとなってアンモン人に対抗できるようになることなどあり得ないと見ていたのでしょう。それが外から客観的に見たイスラエルの状態であったのです。しかし、すべての道が閉ざされたように見える時、主御自身が誰も想像しないような仕方で救いの扉を開かれるのです。主は何をなさったのでしょう。サウルを指導者として立て、そのもとに夥しい人々を集められたのです。その次第を見ていくことにしましょう。

 ヤベシュの人々からイスラエル全土に遣わされた使者の一人がベニアミンの地のギブアに到着します。使者はその地の民に事の次第を伝えました。この知らせはたちまちのうちにギブア全体に広まりました。「民のだれもが声をあげて泣いた」と書かれています。これはヤベシュの人々への同情の涙であったに違いありません。

 しかし、かと言って、彼らはヤベシュの人々を助けに行くわけでもありません。彼らは自分たちが行っても勝ち目がないことを知っているのです。年老いたサムエルがイスラエルの民全体を統率してヤベシュを助けに行くことなどもはや考えられません。ギブアの民の涙は、自分たちの無力さを悲しむ涙でもあったのです。

 そこにサウルが登場します。かつてろばを捜す人として現れたサウルが、今度は牛を追う人として現れるのです。既に10章においてサウルが王として選ばれ、民が喜び叫んで「王様万歳」と言った次第が書かれていました。それを見る限り、既に即位式はなされているのです。にもかかわらず、サウルが牛を追っているというのは奇妙に見えます。しかし、考えてみれば王国としての体制がすぐに整うはずもありませんから、これも無理からぬことでしょう。

 しかし、ここに描かれているサウルの描写は、単にまだ王国としての体制が整っていなかったことを語っているのではないのです。なんと、人々が皆泣いている時に、彼は牛を追いながら「何事か起こったのか」と尋ねているのです!これは単に畑にいたから知らなかったという話ではありません。これはサウルがどういう人物であったかを示しているのです。すなわち、このように彼はいつでも時代の出来事には関心のない人、いわば時代の外にいる人として描かれているのです。

 ところが、そのような人物が、時代の中心に置かれることになるのです。どのようにして?生ける神の霊が臨むことによってです。「それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った」と書かれています。このところは丁寧に読まねばなりません。サウルが怒りに燃えたのは、単にヤベシュの人々に同情したからではないのです。神の霊が彼を内側から動かしたのです。つまりそのような形で、神御自身がサウルを時代の中心に投げ込まれるのです。

 そして、サウルは立ち上がり、イスラエル全土に使者を送って人々を召集します。民は集まり、一丸となって出陣しました。その数はイスラエルが三十万、ユダが三万であったと書かれています。その巨大な召集軍が誕生したのは、明らかにサウルが指導力において優れていたからではありません。「民は主への恐れにかられ」と書かれているのです。民はサウルを恐れたのではなく主を恐れたのです。つまり民はまさに神御自身によって召集されているような恐れにかられたのです。圧倒的な主の招きに逆らうことができなかったのです。そして、このように神によって集められた軍隊がアンモン人の陣営に突入し、彼らを打ち破ったのでした。こうしてヤベシュは救われたのです。

 このように、サムエルが求心力を失った時代に、なおも民が一つとなって立ち上がり、勝利を得ることができたのは、完全に神の御業なのだということが殊更に強調されていることが分かります。既に見たとおり、まだ王国の体制など整ってはおりません。つまり、サウルが王となり、イスラエルが王国になったから、イスラエル軍は一つとなって勝利を得ることができたというわけではないのです。まだ実質的に王国となる以前の勝利なのです。

 確かに王国が制度的に整えられていくことは時代の必然であったと言えるでしょう。しかし、彼らが王国となっても決して忘れてならないことは、整えられた王国の制度がイスラエルを一つにするのではない、ということです。そうではなく、神の霊の働きが神の民を一として生かすのです。それは今日の教会も忘れてはならないことであるに違いありません。確かに教会が制度的に整えられることは重要です。使徒言行録に見るように、聖霊は教会の制度を用いられます。しかし、制度が教会を一つにするのではないのです。あくまでも、それを成し遂げられるのは聖霊の働きなのです。


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