2025年7月6日 主日礼拝説教
聖書:コリントの信徒への手紙二 8:1-7
他の人々に触発されて
今日の第二朗読ではコリントの信徒への手紙(二)の8章が読まれました。この8章と9章には、実は「募金」の話が書かれているのです。それは、貧しいエルサレムの教会を助け支えるための募金でした。今日の聖書箇所でも、「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」(4節)と表現されています。
パウロの内には、貧しいエルサレムの信徒たちを助けたいという熱烈な思いがありました。しかし、貧しい教会を助けるだけでなく、実はこの募金にはもう一つの大きな意味があったのです。それは、この募金を通して、主にユダヤ人から成るエルサレムの教会と主に異邦人から成る各地の教会を結びつけることでした。異なる背景を持つ教会が一つとなるために、この募金には大きな意味があるとパウロは感じていたのです。
しかし、現実には、その募金の業は順調には進まなかったようです。それゆえに、この8章と9章には募金の話が書かれているのです。それが今日の箇所の背景です。さて、募金の業が停滞してしまった時に、パウロはどうしたのでしょう。今日の箇所をご覧ください。彼はまず、他の諸教会の話を持ち出したのです。マケドニア州の諸教会、すなわちフィリピの教会ややテサロニケの教会の話を始めるのです。
「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」(1‐4節)。
「神の恵みについて知らせましょう」と言っていますが内容は募金の話です。実は4節で「慈善の業」と訳されているのも同じ「恵み」という言葉です。6節においても、同じ「恵み」という言葉が、「慈善の業」と訳されています。なぜ「恵み」という言葉を用いているのかについては後で触れますが、それはともかく、極度の貧しさの中にあったマケドニアの諸教会においてさえ、募金が始まった話をパウロはコリントの教会に聞かせるのです。マケドニアの諸教会が、強いられてではなく、自分から進んで「参加させて欲しい」としきりに願い出たという話を、コリントの教会に聞かせているのです。
実は、9章を読むと分かるのですが、パウロは逆のこともしているのです。マケドニアの諸教会にコリントの教会の話をしているのです。こう書かれています。「わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです」(9:2)。
さて、このような話を読んでどう思いますか。「募金」と書かれていますけれど、これは教会の中での話しですから、意識としては当然神に献げる「献金」なのです。そのような「献金」を勧めるに当たって、他の人たちが熱心に献げていることについて語るというのは、どうなんでしょう。一面において、とても人間臭い小細工に見えなくもありません。
しかし、パウロはそのような人間臭い話を堂々とするのです。つまり、そのような面を否定しないのです。実際、募金にせよ献金にせよ、横を見ながら献げるという一面はあるのでしょう。もちろん、それでは純粋な献金にならない。そのようなものは偽善だ不純な行為だと正論を吐くことはできるかもしれない。しかし、パウロはそうは言わないのです。大まじめに他の人の話を持ち出すのです。
さて、ここでは募金の話ですが、このことは人間の行うあらゆる「善き行い」についても言えるのだと思います。そこには他の人に影響されたり、あるいは他の人の姿に触発されたり、「わたしもあの人のようになりたい」と思って行うという面は必ずあるのでしょう。人間の行為である限り、人間の間の相互作用は必ずあるのです。パウロもそれが分かっている。だから否定しないのです。
しかし、人間の「善き行い」には、そのような側面があるからこそ、大事なポイントをきっちりと押さえておく必要があるとも言えるのです。ただ人間のことだけを考えていてはならない。人の方だけを向いていてはならない。パウロはよく分かっているのです。だからこそ大事なポイントは外さない。それが良く表れているのが、今日の朗読箇所のすぐ後に出てくる8章9節です。そこでパウロは、いきなりキリストについて語るのです。今日の箇所を理解する上で大事なので、そこも見ておきましょう。
キリストの恵みを知るゆえに
パウロは言います。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(9節)。
「主は豊かであったのに」とはどういうことでしょうか。イエス様が生まれたところは馬小屋でした。主が育った家庭は決して豊かではありませんでした。主が弟子たちとともに宣教の働きをしていたときでさえ、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」と言っていました。この世的に見るかぎり、主が豊かであったことは一度もありませんでした。それでもなお、聖書は「主は豊かであった」と語るのです。
なぜでしょう。聖書はキリストの生涯を馬小屋から始まったものと見てはいないからです。その前があるのです。主は父なる神と共におられた御子なる神なのです。御子なる神があえて天の栄光を捨てて貧しくなり、この世に来られたのです。ですから、「貧しくなった」というのは、単にこの世において貧しい生活をされたという意味ではないのです。神が人間になられたということです。人間となられてこの世に来られるということです。それは、神にとって究極の貧しさを意味するのです。
そして、「主が貧しくなられた」とは、単に人間としての様々な制約のもとに置かれるということだけではありませんでした。人間となることの貧しさは、人間が罪ある存在だということに関わっているのです。
聖書は人間の罪を一万タラントンの借金に喩えて語ります(マタイ18:23以下)。それは莫大な返済不能な借金です。そのように、私たちは皆、償いきれないものを負っているのだ、というのです。償いきれない罪の数々を神に対しても、また人に対しても負っているのです。人間であるとはそういうことなのです。
キリストはこの世に来られ、そのような人間の一人になられました。キリストは罪のない方ですから唯一負債のない人間であったと言えるでしょう。しかし、そのキリストが私たちすべての人間の罪を代わりに負ってくださったのです。キリストは私たちの負債を代わりに負って死なれたのです。キリストが負債者になってくださった。そこまで貧しくなってくださった。それは私たちのためでした。だから「あなたがたのために貧しくなられた」と語られているのです。
それは私たちが罪を赦され、救われるためでした。罪を赦された者として神の子供たちとして生き、神の国を受け継ぐ者とされるためだったのです。単に借金が帳消しになっただけではありません。それは私たちの考え得る究極の豊かさをいただいたということです。パウロが言うとおりです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。
これが「主イエス・キリストの恵み」です。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています」とパウロは言います。そうです、コリントの人たちはこの恵みを知っていたはずです。ここにいる私たちもまた知っているはずです。それがここに語られているすべての大前提なのです。
そのように私たちが豊かな者とされた。それはその豊かさがこの世において表されるためなのです。豊かさが他の人に向かってあふれ流れていくのです。それが聖書の語る「善き業」なのです。募金もそうです。献金もそうです。奉仕の業もそうです。キリストによって豊かにされたゆえに、その豊かさが他の人々に溢れ流れていくのです。パウロが紹介していたマケドニアの諸教会の募金活動の源もそこにあったのです。それは神の恵みから生まれたものなのです。
だから今日の箇所においてパウロは、「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と語り出していたのです。そして、先ほど申しましたとおり、「慈善の業」を意味するものとして「恵み」という言葉を用いるのです。あえてパウロは「恵み」と表現しているのです。それは恵みから生まれたものであり、その恵みに応えて募金できること自体が「恵み」だからです。
実際この箇所を改めて読むと、とても不思議な書き方がされていますでしょう。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」(1節)。現実は極度の貧しさの中にいるのです。しかし、そこから人に惜しまず施す豊かさが、まさに驚くべき豊かさがあふれ出てくるのです。このようなことが実際に起こっていたのです。それはなぜか。それはキリストの恵みから出ているからです。惜しまず施す豊かさ自体が、神からくる「恵み」だからです。
それは、私たちの献げ物にしても、いかなる奉仕についても言えることです。確かに私たちには、横を見て献げ、横を見て奉仕するという面があるかもしれません。他の人に触発されてということは、いくらでもあるのでしょう。しかし、それはそれでよいのです。 しかし、それだけであってはならない。だからこそキリストの恵みからは目をそらしてはならないのです。その一点だけは外してはならないのです。
主が私たちのために何をしてくださったのか。私たちは何者とされているのか。そのことさえ私たちが忘れていない限り「キリストの恵み」を忘れていない限り、私たちの内から溢れ出してくる豊かさは必ずあるのです。私たちがどのような者であっても、私たちの内からあふれ流れる豊かさによって、周りを生かす豊かな者として生きることができる。そのことを信じて、ここからまた世に遣わされていきましょう。