2025年7月16日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 10:1~27

サムエル記上 10:1-27

 今日は10章をお読みしました。前半は前の章からの続きです。サウルは政治的な事柄にも宗教的な事柄にも全く無関心な人物として登場します。彼には政治的な野心も崇高な宗教的ビジョンもなく、イスラエルのリーダーとなる自信も経験もありませんでした。しかし、必要なものを全く備えていないこの人物こそ、まさに神が王となるべく選んだ器だったのです。

 その神の選びの計画の中で、サウルがサムエルと出会います。サウルからすれば、それは全くの偶然の出来事でした。サウルはいなくなったろばを求めてたまたまサムエルのいる町に着いたのです。しかし、すべては神の計らいの中にあったのでした。サウルは偶然辿り着いた町における祭儀的な食事に自分の席が用意され、自分の食事が取り分けられていたことを知ることになります。

 それはまさにしるしでした。神がサウルの人生に用意していることがあることを示すしるしだったのです。彼が求めていたのはいなくなった「ろば」でした。しかし、主がサウルのために備えていたのは、彼が求めていた「ろば」ではなく、まったく別のことでした。それは何か。10章に入って、ついにサウルに対して明らかにされることとなるのです。

 町外れまでサウルに伴ったサムエルは、「従者に、我々より先に行くよう命じ、あなたはしばらくここにいてください。神の言葉をあなたにお聞かせします」(9:27)と言いました。従者が先に行くと、サムエルはおもむろにサウルの頭に油を注いで、「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです」(1節)と宣言したのです。そして、それが神によることを確証する三つのしるしについて語ったのでした。

 第一は、ラケルの墓の脇で二人の男に出会い、彼らが「あなたが見つけようと出かけて行ったろばは見つかりました」と語る、というものです。第二はベテルに神を拝みに上る三人の男との出会いです。彼らは二個のパンをサウルに渡します。そして、第三は主の霊が激しく降るというものです。

 この最初の二つのしるしが実現したことについては、特に述べられてはおりません。9節において「以上のしるしはすべてその日に起こった」という言葉の中に、その実現が示唆されているだけです。詳細に描かれているのは、第三のしるしの実現です。つまり、これこそがこの箇所において最も重要なこととして語られているのです。

 第三のしるしが起こる場はギブア・エロヒムです。これは26節にありますように、サウルの家があった場所です。しかし、ここではわざわざ「ペリシテ人の守備隊がいる」と説明されています。ギブアというのは「丘」という意味ですが、その名のとおり、その地は高いところにありました。標高1100Mくらいです。ここにペリシテ人の守備隊がいるという記述から、当時の状況を知ることができます。

 ペリシテ人は海の方から渡ってきた民ですから、専制君主たちが治める都市国家は比較的海に近い低地にありました。しかし、この時点においては、既に標高の高い部分にまでペリシテ人の支配が及んでいることが分かります特にペリシテ人の守備隊が置かれているギブアは、政治的にも緊張をはらんだ地であることが分かります。

 そこに聖所がありました。古代の世界においては、戦争は常に宗教的な事柄ですから、聖所は軍事的な意味合いをも持っているのです。それが置かれている場所は軍事的な要所なのです。その聖所から預言者の一団が下って来ると予告されました。

 当時の預言者団の特徴は、楽を奏でながら神の霊に満たされて語るところにあります。「預言する状態になっている」と訳されている言葉は、そのような神の霊に支配された状態を意味しています。しかし、既に申しましたように、これは軍事的政治的な意味をも持っているのです。ある人はこれを反ペリシテのデモ行進と見ています。実際、それは十分に考えられることです。

 ここで重要なことは、主の霊がサウルに降り、「彼らと共に預言する状態に」なったことが殊更に書かれている点です。既に見てきましたように、彼はそのような緊迫したギブアにいながら、時の指導者サムエルを知らなかったという、まことに時代状況に無頓着な人物でした。そのサウルがどうして王として立ち上がり、戦いの指導者となっていくのか。聖書は、それはただ主の霊が降ったからだ、と説明するのです。そのことを聖書は「別人のようになる」(6節)あるいは「神はサウルの心を新たにされた」(9節)と表現しているのです。

 人間の熱意と計画とが時代を動かすことは、社会においても教会においても確かにあるのでしょう。しかし、それが全てではありません。人間の熱意や計画とは全く関係なく事が進められることがあるのです。純粋に神の介入によって事が動いていく。予想もしなかった方向に事が進んでいく。そのようなことがあるのです。「サウルもまた預言者の仲間か」ということわざは、そのような思いも寄らない神の介入を表現したものです。しかし実は、これはここで初めて出てくることではなく、既に士師記において繰り返されてきたイスラエルの伝統的なものの見方なのです。

 サムエルはサウルに「これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい」(7節)と告げました。しかし、それはあくまでも「神があなたと共におられる」という理由によることでした。だから大事なことは「神があなたと共におられる」ように「あなたも神と共にいる」ということなのです。すべてが神によって始められたことを認めて、神に信頼し、神と共にあることなのです。

 それは場合によっては「待つ」ということをも意味します。しかし、「待て」という命令に服することは、「何かをせよ」ということ以上に難しいものです。これがサウルにとってこれが最初の試練となり失敗となります。13章に至ってそのことが明らかになります。ちなみに8節は括弧で囲んでおいたほうがいい言葉です。時間的な流れから言えば、これは本来は13章にあるはずの文なのです。しかし、前後の脈絡を破ってここにあえて挿入されているのは、「何でもしなさい」という言葉と共に、そこに伴う危険が暗示されているのでしょう。それは時として主に信頼して「待つ」ということでもある、主への従順が前提とされているのです。

 17節以下には、8章においてなされた王を与えよとの要求に、サムエルが応えて王を立てる過程が描かれています。初めに、王の擁立が本来の神の御心ではないことが、再び明らかにされています。その上で、全部族の中からくじで王となる人物が選び出されることになります。

 くじはしばしば神意を尋ねる方法として聖書に出てきます。このくじ引きの結果、サウルが選ばれます。印象的なのは22節と23節の記述です。「『見よ、彼は荷物の間に隠れている。』人々は走って行き、そこから彼を連れてきた」。ここにおいても、生来のサウルが王として決して相応しい勇者ではなかったことが強調されています。彼が勇者でありえるとするならば、それは神の霊によるのです(11章)。また、彼に従った人々も、「神に心を動かされた勇士たち」であったことが書かれております。神が彼のためにこれらの人々を備えられたのでした。

 しかし、これらの勇士たちの存在は、歴史的に見るならばやがて職業軍人層を形成していくことになります。サウルがどのようにこの職業軍人層を形成していったかについては、14章に記されています。「サウルの一生を通して、ペリシテ人との激戦が続いた。サウルは勇敢な男、戦士を見れば、皆召し抱えた」(14:52)。これは王国形成に伴う当然の成り行きでありました。しかし、人間の作った体制によって国家の安定を図ること自体は、大きな問題をも孕んでいたのです。


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