2025年6月15日日曜日

「どんなときにも神を賛美して生きる」 

2025年6月15日 主日礼拝説教 

聖書:エフェソの信徒への手紙 1:3-14

神をほめたたえて生きる
 本日の第2朗読で読まれた箇所には、神が私たちのためにしてくださったことが書かれています。そして、その合間合間に、パウロはこう書いています。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6節)。「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」(12節)。「こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(14節)。

 信仰生活とは、神をほめたたえて生きる生活です。喜びの中にあって神を賛美し、悲しみの中にあっても神を賛美し、豊かさの中にあって神を賛美し、困難と窮乏の中にあって神を賛美し、健康な時に神を賛美し、病気の床において神を賛美して生きる。そのような生活です。ちなみに、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と書いているパウロは、獄中からこれを書き送っているのです。彼は獄中において神を賛美しているのです。

 この世界は変わります。私たちの置かれている状況も刻一刻と変わっていきます。しかし、信仰をもって生きるということは、何が変わったとしても、私たちの人生を貫く変わらざる一本の太い柱を持つことです。それは、神を賛美し神を礼拝して生きるということです。

 そのように、いかなる時にも神を賛美し、神を礼拝して生きるためには、神がいかなる御方であるかを良く知らなくてはなりません。神が何をしてくださったのかを知らなくてはなりません。そして、知るだけでなく、常に意識して生活することが大事です。そのためにも、今日のような箇所が繰り返し読まれるということは、私たちにとって必要なことなのです。

一方的な恵みにより
 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」。そのように私たちがほめたたえて生きるその神は、いかなる神であるのか。――私たちを祝福してくださった神様です。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(1:3)と。

 私たちは既に、天のあらゆる霊的な祝福をもって、祝福されているのです。それは「天の」と書かれているように、神のみが与えることができる祝福です。「霊的な」とはそういうことです。単に「精神的な」ものならば人間でも与えることができるのです。しかし、人間にとって本当に必要なのは、人が与えることのできるものではなく、天に属する霊的なもの、神のみが与えることのできるものです。そして、それは既に与えられているのです。それは神が与えてくださった祝福ですから、人が奪うことはできません。人はパウロを牢獄に放り込むことはできましたが、天のあらゆる霊的な祝福を奪うことはできませんでした。ですから牢獄の中にさえ賛美が満ちていたのです。

 それはすべて神の恵みによるものです。それを聖書は「選び」という言葉で表現します。この「選び」という言葉は誤解を生みやすい言葉でもあります。「神に選ばれた」などと言いますと、それは実に鼻もちならないエリート意識に聞こえるかもしれません。しかし、パウロが「選ばれた」と言うときには意味合いが全く違います。要するに、「私たちが何かをしたからではない。私たちの功績じゃない」と言っているのです。祝福されたとしても、「私たちの側に根拠はない」という意味です。すなわち「それは神の一方的な恵みです」と言っているのです。

 ですから「天地創造の前に、神は…お選びになりました」などという奇妙な表現が出てくるのです。「神は私が生まれる前から私を選んでくださいました」と言えば、それは「私の行いや功績にはよらない」ということになるでしょう。「生まれる前」ならまだ何もしていないのですから。それを究極まで押し進めると「天地創造の前から」となるのです。どのような表現にせよ、要するに、「私たちの功績じゃない」ということです。一方的な恵みだということです。

神の子とされて
 それは5節において、神の子でない者を神の子とすることとして、言い換えられています。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(5節)。ここで用いられているのは養子縁組を表す言葉です。神の養子にされるということです。神はここに書かれているように、「主イエス・キリストの父である神」です。しかし、そのキリストと父なる神との関係の中に、私たちも入れていただいたのです。イエス様が「父よ」と祈られたように、私たちも天と地の造り主なる方を、「天にまします我らの父よ」と呼ぶことが許されているのです。そして、御子を長子とする家族へと加えられたのです。その理由と根拠は私たちの側にはありません。パウロは、ただ神が「御心のままに前もってお定めになった」からだ、と言うのです。

 実は、この「御心のままに」と訳されている言葉は、「神の喜びとするところに従って」とも訳せる表現です。要するに、私たちが神の子とされたのは、それが「神の喜びであるから」という単純な理由によるのです。これは驚くべきことでしょう。まことに神の子とされるに相応しからぬ私たち、自分で自分のことを持て余しているような私たちを、神の子とすることが、神にとっては喜びなのだと聖書は教えているのです。私たちが神を「父よ」と呼ぶようになることが、神の喜びだというのです。私たちは神の喜びなのです。

 そして、神が御子イエスを世に遣わされたのは、まことに相応しからぬ私たちを神の子にするためでした。「イエス・キリストによって」(5節)とあるとおりです。その事実を6節では「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」と呼んでおります。その恵みが何であるかは、7節において明らかにされています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」

 人間の罪は、自分が忘れても、相手が忘れても、世間が忘れても、それで消えるわけではありません。それは借金のように残ります。イエス様はある時、人間の罪を一万タラントンの借金に喩えました(マタイ18:24)。それは到底返済できない負債であるということです。罪の負債を抱えたままでは、私たちは神の子となり得ませんでした。しかし、神は私たち人間の罪を、御子に肩代わりさせたのです。その罪の負債を、御子が十字架において、血をもって、その命をもって、完済してくださいました。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」とは、そういうことです。そして、言うのです。「これは、神の豊かな恵みによるものです」と。

救いの完成に向かって
 そして、神の恵みはそこに留まりません。さらにこの恵みを私たちの上にあふれさせ、神の秘められた計画を知る者としてくださったというのです。次のように書かれています。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(8‐10節)。

 私たちが罪を赦され、神の子とされ、御子のもとに集められていることは、ただ私たち個人に関わることなのではありません。神は、御子を通して、この世界に対する計画を明らかにされたのです。それは、私たちがこうしてキリストのもとに集められているように、やがて頭であるキリストのもとに世界が一つとされるということです。いや、天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのだ、と聖書は教えているのです。

 目を転じて見るならば、この世界はまさにずたずたに引き裂かれた世界です。互いに対立し、反目し、争い、殺し合っている世界です。私たちの身近なところにも、人と人とが共に生きられない現実があります。しかし、私たちには望みがあります。神には神の計画があるからです。救いの完成へと向かう計画があるからです。そして、やがて時が満ちるのです。「時が満ちるに及んで、救いの業は完成する」と私たちは信じているのです。

 そして、それは単に未来に待ち望むべき希望であるだけではありません。今、こうしている時に、既に私たちはその救いの豊かさの一部を味わい始めているのです。

 13節でパウロは「あなたがたもまた」と語りかけます。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。これはエフェソの異邦人キリスト者たちです。彼らが宣べ伝えられた言葉を聞いて、信じて、バプテスマを受け、互いに異なった者たちが共に主を礼拝していること自体が、既に聖霊の働きです。それはここにいる私たちも同じです。私たちもパウロから見たら異邦人ですから。その私たちが今こうしていることは、聖霊の働きです。私たちは聖霊によって「証印」を押されたのです。「証印」とは所有者を現すしるしです。私たちは既に神のものなのです。

 そのように私たちにこのような信仰生活を与えてくれた聖霊こそ「わたしたちが御国を受け継ぐための保証である」(14節)と語られています。この「保証」と訳されている言葉は「手付け金」を意味します。やがて全体を受けとることの保証として、その一部を受け取るのです。それが聖霊によって私たちに与えられる信仰生活です。私たちは、救いの完成へと向かう者として希望に生きるだけでなく、その一部を手付け金として受け取り、救いの恵みを今この時に味わいつつ生きることが許されているのです。そして、その手付け金によって、さらに確かな希望に生きる者とされるのです。

 これらはすべて神が恵みによって私たちに対してしてくださったことでした。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。それゆえ、最初に申し上げたように、信仰生活とは神をほめたたえ、神を礼拝して生きる生活となるのです。私たちがここにおいて、歌声をもって神を賛美するように、私たちの生活そのものが、そして人生全体が神への賛美となりますように。

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