2025年6月29日 主日礼拝説教
聖書:フィリピの信徒への手紙 2:12-18
今日の聖書朗読は次のような言葉で始まっていました。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)。
自分の救いを達成するように努める
さて、「自分の救いを達成するように努なさい」と言われています。しかし、それはいかなることを意味しているのでしょうか。私たちが良き行いを積むことによって救いを獲得するということでしょうか。私たちが救われるにふさわしい人間になるということでしょうか。――いいえ、聖書は私たちが自分の行いによって救われるのではないことを繰り返し語っています。例えばパウロはエフェソの教会に宛てて、次のように書いています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8‐9)。
そのように、救いは神の賜物なのです。恵みによって与えられるプレゼントであり、私たちはただ受け取るだけなのです。そのように神は一方的な恵みによってキリストをこの世にお送りになられ、キリストの十字架によってこの世の罪を贖われ、ただ十字架のゆえに私たちは罪を赦されて、神との交わりに入れられ、神の子どもたちとされたのです。「天にまします我らの父よ」と祈り、こうして共に礼拝していること自体が既に救いの現れなのです。
その意味において、私たちは既に救われているのです。私たちは「恵みにより、信仰によって《救われました》」とパウロが言っているとおりです。ではなぜ、そのパウロがここにおいては、「自分の救いを達成するように努めなさい」と言っているのでしょうか。
そこで実際に受け取ったプレゼントを手にしている姿を想像してみてください。それは私たちが獲得したものではありません。感謝して受け取っただけです。しかし、そのように受け取ったプレゼントを奪おうと狙っている敵があちらこちらに潜んでいるとしたらどうでしょう。私たちはそれを奪われないように注意深く歩いていくことでしょう。場合によっては奪われないために敵と戦わなくてはならないかもしれません。
私たちは一方的な神の恵みによって神との交わりに入れられ、神の子どもたちとして生き始めました。そのような信仰生活を与えられ、教会生活を与えられました。もちろん、そこにおいて私たちが味わっているのは、まだ救いの一部に過ぎません。私たちは救いの完成に向かって歩んでいる途中にあるのです。
しかし、私たちがそのように歩んでいるこの世界には、私たちを神から引き離そうとする力が働いているのです。せっかくいただいた信仰生活を破壊し、教会生活から引き離す力が、「誘惑」として、厳然として働いているのです。私たちを誘惑する悪魔については、聖書が繰り返し語っているとおりです。それは決しておとぎ話ではありません。私たちがこの世界において経験している事実なのです。
それゆえに、私たちはただ恵みによって救われて、神との交わりを与えられ、信仰生活を与えられたなら、パウロが言うように、最後まで信仰を全うして、救いを達成するように努めなくてはならないのです。すなわち、最後まで神に従い、神と共に歩み続けることです。それをパウロは「従順」という言葉で表現するのです。信頼して離れることなく、どこまでも従い続けることです。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。
そのように私たちが信頼して従うのは、他ならぬ神御自身が救いの完成を願っておられるからです。私たちの内に働きかけて救いの望みを与えてくださったのは神御自身です。そして、その神御自身が救いの実現へと導こうとしておられるのです。次のように書かれているとおりです。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神であるからです」(13節)。だからその神に信頼して、離れず従順に従い続けさえすれば、必ず救いの完成に至るのです。そうです。必要なのは従順であることです。
不平や理屈を言わずに行いなさい
では、具体的には、どうしたらよいのでしょう。そこでパウロは次のような勧めを与えています。「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」(14節)。「理屈を言う」というのは「疑う」とも訳せる言葉です。信頼しないでブツブツ言うことです。
さて、従順が語られるところで、どうして殊更に「不平を言わずに」という話が出てくるのでしょう。それは実際に、従順が非常に重要になる場面で、不平を言い、理屈をこねて、従おうとしなかった人々が現にいたからなのです。そのような人たちの話が旧約聖書に出てくるのです。
ご存じのように、イスラエルの民は、かつてエジプトにおける奴隷でした。そのような彼らが、神によってエジプトから解放され、モーセに率いられて、神と共に歩む民となりました。それは神の恵みであり恵み以外の何ものでもありませんでした。神が葦の海を二つに分けてその中を通らせた話は有名ですが、それこそまさに恵みが何であるかを明らかにする出来事でした。
そのように恵みによって救われた民が、神の恵みに感謝しつつ、安息の地に向かって旅をし始めたのです。昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれての旅でした。それは神が共におられることのしるしでした。主が共におられるゆえ、確実に安息の地へと向かうことのできる旅だったのです。ひたすら神に信頼して、離れずについて行けば良かったのです。
しかし、聖書はなんと語っているでしょうか。すぐに彼らは不平を言い始めたのです。彼らは、水がない、食べ物がないと言ってつぶやき始めたのです。彼らを救ってくださった御方が真実であることを信じなかったのです。彼らはモーセに言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出16:3)。彼らは救いの恵みを忘れて、彼らの古い生活、エジプトの肉鍋を懐かしんでいるのです。彼らは繰り返しこのように不平を言いました。そしてついには、「エジプトに引き返した方がましだ」(民13:3)とまで言い出したのです。
同じことが今日の私たちにも起こるかもしれません。ですから聖書は言うのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」。不平を言うというのは、ある意味では小さなことです。他の人に対して極悪非道なことを行っているわけではないでしょう。しかし、その小さなことが、まことに小さなことが、救いの達成の大きな妨げとなるのです。
エジプトの国で死んだ方がましだった。エジプトからの脱出なんてしなければよかった。そのようにイスラエルの民はつぶやきました。同じように私たちも試練の中を通される時に、後ろを向いて古い生活を懐かしむようなことがあるかもしれません。
しかし、今もし荒れ野に導かれているとするならば、そこには神の意図があるのです。そこでしか見ることのできない神の恵みがあるのです。そして、そこにはまた、私たちに託されていることがあるのです。為すべき事があるのです。同じことを行うにしても、後ろを向いて不平を言いながら、ブツブツいいながら行うのと、神に信頼し、前に向かって、救いへの導きを信じて行うのとでは、雲泥の差があるのでしょう。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」。繰り返しますが、その小さなことが最終的な救いの達成と深く関わっているのです。
星のように輝いて
しかし、ここでもう一つのことを考えたいと思うのです。パウロは単に、「何事も、不平や理屈を言わずに、従順でいなさい。そうすれば、あの不従順の民のように途中で滅んでしまうことはないから」と言っているのではありません。「途中で滅びてくれるな」というような、そんな消極的なつまらない意図をもってこの勧めを書いているのではないのです。なんとパウロはこのように続けるのです。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15‐16節)。
フィリピの信徒たちのことを考える時に、彼が思い描いていたのは、真っ暗な闇夜においてキラキラと輝いている星のような姿だったのです。確かにこの世界には罪の力が大きく働いています。それゆえに苦難の満ちている世界です。この世界の苦しみを用いて、悪魔は信仰者を神から引き離そうとするでしょう。その意味では、この世界は確かにいまだ救いの朝を迎えてはいない夜の世界です。暗闇としか表現できない世界です。
しかし、そこにおいて神が見たいと願っているのは、なんとか信仰を保っている信仰者ではないのです。まだ救いの朝が来ていないこの世界において、いやそのようないまだ暗闇が覆っている世界だからこそ、そこに星のように輝く人々が生きていることを、信仰の光を輝かせて生きている人々の姿を、神は見たいと願っておられるのです。星は闇夜の中でこそ輝くのです。私たちがこの世界において、恵みの賜物として、信仰生活が与えられているとはそういうことなのです。
もちろん、普通に考えるならば、ここに書かれていること自体は、はるか遠くに見える山の頂のような話であるとも言えます。「とがめられるところのない清い者」とか「非のうちどころのない神の子」などという言葉は、いかにも遠い理想に思えるかもしれません。しかし、それをお望みになり、そのように導いておられるのは神御自身なのです。だから私たちとしては、信頼して一歩一歩進んでいけばよいのです。その小さな一歩は何か。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」ということなのです。
そもそも、不平を言いながら星のように輝くことなどできようはずもありません。救ってくださった方を信じ、与えられている状況の中で事々に感謝をもって受け止めて生きてこそ、確実に一歩一歩を踏み出すことになるのです。私たちは恵みによって救われました。その恵みを無駄にすることなく、救いの達成へと向かって主と共に歩んでまいりましょう。