ガラテヤの信徒への手紙 6:1ー10
互いに重荷を負いなさい
聖書の中にこんな話が出てきます。ペトロがイエス様に尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。するとイエス様が答えます。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)。
人を赦すこと。人を赦し受け入れることのできる広い心を持つこと。それが大事であることは私たちもよく分かっています。憤ってばかりいる人、恨みを抱き続けている人よりは、人を赦すことのできる人になりたいとも思いますし、心の広い寛容な人になりたいとも思います。
しかし、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」となると、話は別です。七の七十倍になったら、もはや実際的には数えられません。「今回赦したら490回目ですよ」ということは起こり得ない。要するに何回赦したか「数えるな」ということです。数えないで赦しなさい、ということです。そうなりますと話は違ってまいります。
どんなに人を赦すことが大事だと思っていても、さすがにこのイエス様の言葉はあり得ない。それこそ赦しがたい人々の顔がちらちらと思い浮かんでくるかもしれません。そんな人たちを何度も赦すなんて、絶対にあり得ない!――それが自然な反応だと思います。
いや、これは単純に《できるかできないか》の問題ではないのです。「そもそもそれは正しいことなのか」という問いが生じてくるからです。何度も赦して本当に良いのか。その人が同じことを繰り返すだけではないか。赦してやるのではなくて、二度と同じ過ちを犯さないように、むしろ一度徹底的に痛めつけた方が、本人のためなのではないでしょうか。
いずれにせよ、徹底的に痛めつけるかどうかは別として、人はただ赦されるだけでなく、正されなくてはならない。それは誰もが普通に考えることだろうと思うのです。実際、今日の第二朗読において、パウロもまたこう言っていました。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(1節)。この「正しい道に立ち帰らせなさい」というのは意訳でありまして、「正しなさい」というのが直訳です。
パウロも、誰かが罪に陥ったなら、その人はただ赦されるだけでなく、正されなくてはならないと言うのです。ただ、「もう二度としないように徹底的に痛めつけて正しなさい」とは言いません。「柔和な心で(正しなさい)」と言うのです。どうも、これがとても重要なポイントであるようです。
パウロが、あえて「柔和な心で」と言うのは、実際には柔和になれない状況があるからなのでしょう。考えてみてください。教会内の人間関係においても、この社会の人間関係においても、問題になるのは一般的な意味で「だれかが何かの罪に陥ったら」という場合ではないのです。そうではなくて、ペトロが言っているように「わたしに対して罪を犯したなら」という場合なのです。つまり誰かによって《自分が》苦しい思いをする、痛い思いをする、理不尽な重荷を負わされる。そのような場合なのです。あるいは直接的に自分が被害を受けないとしても、間接的に、誰かが被害を受けることによって、自分も不快な思いを強いられる。あるいは共同体全体が不利益を被る。そんな場合もあるでしょう。
自分に重荷がやってこない「どこか他所の誰かの罪」の話なら、恐らくいくらでも柔和になれるのです。おだやかに対処もできるのです。しかし、現実には往々にしてそうはならない。私たちが気づく罪というのは、私たち自身にも関わってくるから気づくのです。何らかの形で私たち自身の重荷にもなるから気づくのです。ですからパウロもまたこれを一般的な話にしないで、すぐさま続けてこう言うのです。「互いに重荷を担いなさい」(2節)。
他人の罪や悪に気づくのはそれほど難しいことではありません。その罪に怒りを向けることも難しくはありません。それは努力しなくても自然に起こります。人を裁くことは簡単です。非難することも簡単です。断罪することも簡単です。こちらが強ければ、徹底的に痛めつけることも、あるいは簡単なことなのかもしれません。
しかし、本当の意味で「正すこと」はとても難しい。「互いに重荷を担いなさい」とあるように、それはあえて重荷を背負うことでもあるからです。重荷を背負うつもりがなくても、人に怒りを向けることはできます。人を裁くことも、非難することもできます。重荷を背負うつもりがなくても、痛い目に遭わせることはできるかもしれません。しかし、重荷を背負うつもりがなければ、正すことはできません。
ちなみに「正す」が直訳だと言いましたが、これはまた「修繕する」という意味の言葉でもあるのです。破れたところを繕う。ボロボロになってしまったものを繕う。誰かが罪を犯すなら、その人に必要なのは、ただ怒りを向ける人でも、非難する人でも、痛めつける人でもないのです。そうではなく、重荷を負うつもりで、こつこつと修繕する人、ボロボロになっているところを繕ってくれる人、そのように関わり続けてくれる人こそが必要なのです。「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい、修繕しなさい」とはそういうことです。
するとそこで、やはりあのイエス様の言葉が響いてまいります。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」そこに語られている、最も深いところにおける赦しの心が必要となってくるのです。
私たちの重荷を負ってくださった神
とはいえ、それは難しい。なんと難しいことかと思います。しかし、だからこそ私たちは、そのように生き、そのように私たちに関わってくださったイエス様に目を向け続けなくてはならないのでしょう。「赦しなさい」と言われたあの御方は、私たちのちっぽけな「赦しの心」とは比較にならない、とてつもなく大きな、神の「赦しの心」をその身をもって現してくださった方だからです。
今日の福音書朗読は、食事の席に着いておられたイエス様のところに、突然、その町で罪深い女として知られていた女性が泣きながら入ってきたという話でした。彼女は後ろからイエスの足もとに近より、涙で足をぬらしては自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻して香油を塗り始めたというのです。
食事の席に赤の他人が入って来ること自体は当時の社会において決して珍しいことではありませんでした。また、食事をする人は、今日のように椅子に座っているわけではなくて、横になって肘をつきながら食事をしていますから、足元に近寄ったということも、さほど不自然な行動ではありません。しかし、それらを差し引いても、やはりこれは本来起こりえない話です。それはファリサイ派のシモンの家だったからです。
神の律法を厳格に守り、清く敬虔な生活をしているファリサイ派のシモン。その家に、罪深い女として知られている人が入ってくることは、まずあり得ません。入ってくれば、裁かれ、非難され、断罪されるに決まっているからです。そのあり得ないことが起こったのはなぜか。理由は一つしか考えられません。イエス様がそこにおられたからです。
つくづくイエス様という御方は不思議な方だと思います。シモンが「先生」と呼んでいるように、イエス様は一面においてはユダヤ教の一教師なのです。ラビです。しかし、普通の教師になら絶対に近づかないような罪人や徴税人たちが、イエス様に引き寄せられるように集まってくるのです。なぜですか。イエス様の言葉、行動、その存在そのものに、神の大きな「赦しの心」が現れていたからでしょう。
そして、この場面では罪深い女として知られている女性が近づいてきた。この女性にとってもイエス様は、罪深い自分をそのまま持って行くことのできる御方だったのです。罪深い者が自分の罪に泣きながらでも安心して近づくことのできる御方だったのです。そこには神の赦しがあるから。大きな神の「赦しの心」が現れているから。イエス様は彼女に宣言されました。「あなたの罪は赦された」と。そして言われたのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。
しかし、そう言われたイエス様は、重荷を背負うつもりでおられたのです。私たちすべての者の罪の重荷を背負うつもりでおられたのです。苦しみを自ら引き受けるつもりでおられたのです。そのように神は重荷を負うつもりで私たちと関わってくださったのです。罪ある私たちを断罪するのではなく、滅ぼすのではなく、大きな赦しの心をもって、自ら重荷を負うつもりで、私たちと関わってくださったのです。この世に御子を遣わされ、十字架にかけられたとは、そういうことなのです。
私たちもまた、今ここにおいて、キリストに現れた大きな神の「赦しの心」に触れています。そこから、私たち自身に必要な小さな「赦しの心」をいただくのです。それはすぐに失われてしまうようなものですから、繰り返し福音の言葉と共に受け取らなくてはならないのです。そのようにして、神によって重荷を負っていただいた者として、互いに重荷を負いながら生きていくのです。裁き合いながらではなく、決裂を繰り返しながらでなく、柔和な心をいただいて、お互いの破れを繕いながら共に生きていく者となりたいと思います。
2023年7月16日日曜日
「互いに重荷を担いなさい」
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