2022年9月11日日曜日

「神の心変わり」

ホセア書 11:1‐9

なぜ聖書は偶像礼拝を禁じるのか
 このような質問を受けることがあります。「私の周りには神を信じていなくても、しっかりしている人はたくさんいます。神を信じていなくても、誠実で真面目な人、愛情の深い人はたくさんいます。そのような人たちに信仰は必要なのでしょうか。」このように、往々にして信仰に関して出される問いは、「人間には信仰が必要であるか、神が必要であるか」という観点からの問いです。

 そのような「神は必要であるか」という観点と、人が神の像を作りそれを拝むという行為とは、本質的な部分において密接に結びついています。古代オリエントの世界において、神の像は神々や諸霊の居場所と考えられていました。ですから、偶像の製造は、ある意味で人が神を必要としているという心の現れであると言えます。必要としているからこそ、確かにそこにいて欲しいのです。いてほしいからこそ居場所を造るのです。それが神の像です。

 しかし、もう一方では、神がいて欲しくないという心の現れであるとも言えます。古代世界においては、目に見えないもの対する恐怖というものは、今日とは比べものにならないほど大きかったわけです。目に見えない神々や霊には、やたらにどこにでもいてもらっては困るわけです。ですから居場所を作ったのです。だから、例えば大きな災いがあった時に、偶像を作って祀ったのです。そのように、偶像というのは、人が神を必要とするかしないかという観点と本質的に結びついているわけです。

 一方、聖書は偶像を作りそれを拝むことを禁じます。聖書は神と人との関係を、そのような“人間の必要”という一方向から考えようとはしないからです。神と人との関係は、人間と偶像のような関係ではありません。ホセア書において、神と人との関係は、ある時は夫婦の関係に喩えられ、ある時は親子の関係に喩えられるのです。その関係は生きた双方向の関係です。

 考えても見てください。子供が「わたしには親が必要か否か」という見方しかできないとすれば、それはどう考えても正常な親子の関係ではありません。そのように、聖書は、単に人間には神がどれほど必要であるか、ということについて語ることをいたしません。それよりも、神が人をどれほど愛し、求めてくださっているか、ということについて語るのです。

 人はなかなかそのような神の心に思いを馳せようとはいたしません。いつでも頭を占領しているのは、自分のことばかり、人間の側のことばかりです。それゆえに、聖書は、不完全な人間の言葉を用いながらも、言葉を尽くして神の心を語るのです。今日お読みした箇所もまた、その一つです。

イスラエルの忘恩
 それではまず1節から7節までをご覧下さい。

 神はまだ幼かったイスラエルを愛された、と書かれています。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」(1節)。成人して立派になり、力を得、役に立つようになったから愛されたのではありません。幼子のように何もできず、手がかかるだけの時に、神はイスラエルを愛されたのだと語られているのです。

 そのように、神とその民との関係は、神の一方的な愛と選びによって始まったのでした。その神が欲しておられたのは、イスラエルの持っている何かではありませんでした。もとより、神に提供することのできるものなどなかったのです。「まだ幼かったイスラエル」なのですから。そうではなくて、神が欲しておられたのは、彼ら自身なのです。神が欲しておられたのは、彼らがただ神の愛に留まることでした。神の子とされたのですから、神に愛されている子供として生きることです。そして、神に愛されている子供として、神を愛して生きることを、神は求めておられたのです。

 しかし、神が預言者を通して語りかけ、呼びかければ呼びかけるほど、彼らは神から離れていきました。彼らの罪とはなんでしょうか。それは、彼らが愛なる神を忘れ、離れていったことでありました。彼らが親を忘れてしまったことにこそ、彼らの罪の根はあったのです。「エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった」(3節)と主は嘆きの声を上げられるのです。

 これはホセアの個人的な経験、一人の親としての経験を通して、神が語られた言葉であると思われます。

 ホセアの妻ゴメルは身持ちの悪い女でした。ホセアは妻の不貞によって生まれた子供たちを受け入れ、愛し、育ててきたのです。生まれ出た赤ん坊は一人で生きることはできません。大きくなった子供が偉そうなことを言っても、決して自分一人で育ってきたわけではありません。子供が育つためには親の労苦と忍耐が必要とされます。

 そのように、イスラエルの歴史において、彼らを愛し、育ててきたのは神でした。彼らが病む時に、彼らをいやされたのは、他ならぬ神御自身でした。幼子が病に伏したなら、親は寝ずの看病だってするでしょう。丁度そのように、神は御自分の民に関わってこられたのです。旧約聖書を読みますときに、なるほどそうだと思います。

 神は、彼らを御自分の子供とされたゆえに、無理矢理に服従させないと使いものにならない牛馬のごとくには扱いませんでした。あくまでも人間として扱われたのです。「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼を導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」(4節)と書かれているとおりです。

 「神はどうして人に罪を犯す可能性を与えておいて、なおも罰するのか」などと言う人がいます。そのような人は、自分を馬か牛のようにしか見ていない人です。私たちは馬や牛ではありません。人間です。神は人間である私たちに、強制的な服従ではなく、愛による自発的な従順を望まれたのです。それこそ神が人間を人間として扱われる仕方だからです。それこそが、愛の対象として人間を見るということなのです。

 その愛の関係こそ、神がイスラエルに与えられた契約の意味でした。ところが人間の方が一方的にその契約を破り、神に背いたのです。そして、人は蒔いたものを刈り取ることになります。神の愛への背きを蒔くならば、滅びを刈り取ることになるのです。

 この預言が語られた時、既にアッシリアのイスラエル侵攻は始まっており、北部は占領されていたものと思われます。ホセアは、やがて完全にアッシリアによって滅ぼされてしまうことを預言します。「アッシリアが彼らの王となる」(5節)と。それは政策における失敗によってもたらされるのではありません。「彼らが立ち帰ることを拒んだからだ」と主は言われるのです。この差し迫っている国家の危機は、まさに彼らが蒔いてきた背信の種が結ぶ実を刈り取っているのだ、と主は言われるのです。

憐れみによる心変わり
 しかし、私たちはここで驚くべき言葉を耳にします。8節、9節をご覧下さい。

 「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(8節)と主は言われるのです。「わたしは激しく心を動かされ」と訳されていますが、単純に訳せば「心が変わる」ということです。ここは「神の心変わり」と呼ばれる有名な箇所です。何によって神の心が変わるのでしょうか。憐れみによってです。義なる神は、契約に背き、神の愛に背いたイスラエルに怒りを向けられ、その罪を裁かれます。しかし、憐れみによってその心が変わるのです。

 この心変わりによって、神の心はその内において分裂します。これまで激しい裁きの言葉を語っておられた神が、そして7節においても「たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない」と最終的な滅亡を宣告していた神が、今やこう叫び出すのです。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」(8節)と。このように、神の心の内には相反する思いが共存することになります。それは神の自己矛盾とも言えるでしょう。そのような自己矛盾を抱えこんでいる神の姿を私たちはここに見るのです。

 さて、このような姿は、あまりにも「神様らしくない」と思う人もいるのでしょう。あまりにも人間臭い描写であると。しかし、主はこう言われるのです。「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(9節)。

 神はあくまでも御自分が神であり、人間ではないことを主張されるのです。聖なる者であると言われるのです。聖なる者であるということは、人間とは全く区別された異なる御方であるということです。

 この自己矛盾をかかえた神の姿は、人間的な描写を用いているからそのように描かれているのではありません。そうではなくて、まさにこれが、神が神であられるということなのです。神が神であるということは、人間の罪をその極限まで憎み、罪を正しく裁く御方であるということです。と同時に、人間を極限まで愛し、完全に赦される愛なる御方であるということなのです。

 そして、神がそのような神であることは、後に十字架にかけられたキリストにおいて完全に明らかにされることになるのです。罪なき御方が十字架にかけられて死んでいくその凄惨な死の様は、私たちの罪を明らかにし、その罪に対する神の憎しみと怒りとを明らかに示します。神は罪を裁き給う神であることを貫かれるのです。しかし、そこにはまた御子をさえ惜しまずに与えられた神の愛が明らかにされているのです。神は愛と赦しの神であることを貫かれたのです。

 「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」と叫ばれた神の声は、やがて御自分の御子をこの世に送り給うことにおいて、目に見える形を取るに至りました。キリストが十字架にかけられたその姿こそ、まさにこの世界のただ中で、神の義と愛が一つとなった姿に他ならならないのです。神は私たちの罪を憎まれます。しかし、神は私たちをどこまでも愛し、追い求めておられるのです。神がそのような神であるゆえに、今、神を礼拝する者としてここにいるのです。

(祈り)

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