2022年6月12日日曜日

「それでもなお主はあなたの神」

申命記 6:4-9

あなたの神、主を愛しなさい
 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(4‐5節)。

 これはモーセの言葉です。モーセの遺言と言ってもよいでしょう。なぜなら、モーセはまもなく自分が世を去ることを知っていたからです。「あなたの神、主を愛しなさい」。それが何を意味するのか。そこに至るまでの四十年の荒れ野の旅を思い起こす時に見えてきます。どのような旅であったのか。モーセは次のように語っています。

 「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた」(9:6‐7)。

 そのように背き続けてきた民に、それでもなお約束の地を与えてくださるとするならば、それは恵み以外の何ものでもありません。彼らは主を愛してはこなかったのです。そうではなくて、主が彼らを愛して来られたのです。その神の恵みによって、約束の地における新しい生活が与えられるのです。そこで改めて語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。ならばそこで求められているのは、神に立ち帰り、恵みに応えて生きるということに他なりません。

 しかし、私たちはもう一つのことを考えておく必要があります。話は約束の地を得たところで終わらないということです。私たちは申命記を読んでおりますが、イスラエルの歴史の物語はさらに続くのです。

 ヨシュア記から列王記へと向かう歴史物語は何を伝えているのでしょう。約束の地を得たイスラエルは、やがてそこにおいて王国を形成することになります。しかし、その王国は南北に分裂し、やがて北王国が滅び、南王国も滅んでいくのです。南のユダ王国は滅亡し、主だった人々はバビロンに連れ去られることになる。そこで列王記は終わります。つまりイスラエルは約束の地を与えられたのですが、先に四十年の荒れ野の旅を振り返ってモーセが語ったのと同じように、イスラエルは約束の地においても主に背き続けて、最終的に約束の地を失うことになるのです。

 私たちが読んでいる申命記が今の形にまとめられたのは、そのような時代においてです。そのように約束の地を失った時代に、人々は改めてモーセの語り掛けを聞くことになりました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

 国は滅び、約束の地は失い、いわば、もう終わりだとしか思えないところにおいて、彼らはもう一度聞いたのです。「あなたの神、主を愛しなさい」。すべてを失ってしまったとしか思えないところにおいて、彼らは再び耳にしたのです。「あなたの神、主を愛しなさい」。ならば何を意味しますか。まだ終わっていないということです。すべてを失ってなどいないということです。そこにはまだ残されているのです。立ち帰るべき御方が残されているのです。愛すべき御方が残されているのです。

 今日は申命記6章をお読みしていますが、30章には次のような言葉が出てきます。やがて王国が滅亡することを予見しているような言葉です。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」(30:1‐3)。さらにこう書かれています。「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」(30:6)。

 そして、実際に国が滅びた時に、主はそのとおりに彼らにしてくださったのです。「あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」。そのようにしてくださった。主は彼らにもう一度語ってくださった。「あなたの神、主を愛しなさい」と。だからこそ、今このような形で申命記が残っているのです。

 それは私たちと無関係な遠い昔の話ではありません。失って初めて気づく。そのようなことが私たちにも、確かにあります。神によって恵みとして与えられていた生活が、恵みであると分からない。だから軽んじてしまうのです。ないがしろにしてしまう。そして、恵みとして与えられていたものを失って初めて気がつくのです。ああ、恵みだったのだ、と。私たちは本当に愚かなものですから、そんなことを繰り返しているのでしょう。新型コロナのパンデミックによって経験したのも、そのようなことなのでしょう。失って気づくのです。あのイスラエルの民のように。

 しかし、そこでなお人は神の呼び声を聞くのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。なぜなら神の愛は失われていないからです。神がそのような神であるからこそ、最終的には独り子をさえ惜しまずに世に与えられたのです。神は御子を十字架にかけることさえなさったのです。御子を私たちの身代わりにして、私たちの罪を赦して、私たちが生きられるようにしてくださったのです。申命記に書かれていたように、そのように、私たちもまた主を愛して生きられるようにしてくださったのです。だからこそ、私たちは今ここにいるのではありませんか。

語り聞かせなさい
 この大いなる恵み。「あなたの神、主を愛しなさい」となおも語られていることの大いなる恵み。この恵みをこそ、伝えていかなくてはならないのです。後の世代に語り伝えていかなくてはならないのです。今日の聖書箇所は次のように続きます。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(6‐7節)。

 今日、六月の第2主日は、教会の暦においては「子どもの日」とされています。私たちはこの礼拝において、特に子どもたちのために、後の世代のために祈りたいと思います。そして、後の世代に対する責任を改めて自覚したいと思うのです。私たちが子供たちに語らなくてはならないのは、私たちが本当に伝えなくてはならないのは、神の恵みなのです。今もなお「あなたの神、主を愛しなさい」と言ってくださっている神の恵みなのです。主を愛して命を得ることができるようにしてくださっている神の恵みなのです。

 しかも、「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも」とあります。そこまで言うか、と驚きを覚えます。しかし、モーセにこのことを語らせているのは、他ならぬ神の熱情なのです。神御自身がどれほど子供たちのことを考えておられるか、どれほど子供たちに伝えて欲しいと思っておられるか、ということでしょう。

 そのように神の恵みを伝えるためには、まず私たち自身が繰り返し思い起こすことが必要なのです。ですから、モーセは次のように語ります。「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(8‐9節)。

 私たちがどれほど大きな愛をもって愛されているか、どれほど大きな愛をもって主は私たちの神となっていてくださるのか、どれほど大きな愛をもって、「あなたの神、主を愛しなさい」と語ってくださっているか、私たちは忘れてしまいやすいのです。人間はそれほどに愚かなものなのです。主がエジプトから導き出してくださっても、また約束の地に導き入れてくださっても、どんなに大きなことをしてくださっても、人は忘れてしまうのです。その恵みに基づく神の言葉を忘れてしまうのです。だから「自分の手に結んでおきなさい。額に付けておきなさい。戸口の柱にも門にも書き記しておきなさい」とまで言われなくてはならないのです。

 そのような神の民の愚かさはイエス様御自身もよくご存じでした。ですから、イエス様もこう言われたのです。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と。そう言って、裂かれたパンを渡されたのです。ご存じでしょう。最後の晩餐での出来事です。「記念として行いなさい」。そのことを繰り返し行わなかったら、忘れてしまうから。イエス様が自らの体を裂いて渡されるようなことをされたとしても、それすらも忘れてしまうのが人間だからです。

 ですから、教会はイエス様を記念してパンを分かち合うことを行ってきたのです。それを二千年間、繰り返し行ってきたのです。ですから、この礼拝堂にも聖餐卓が置かれています。その背後には十字架があるのです。しかも、聖餐は単なる「しるし」ではありません。聖霊のお働きによって、そこにキリストが現臨してくださるのです。キリストが現に私たちに触れてくださり、キリストの贖いの恵みに、現実に繰り返し私たちは与るのです。

 私たちは今日もここにおいて、改めて「あなたの神、主を愛しなさい」という言葉をしっかりと受け止め、また「これを語り聞かせなさい」という主の求めを大事なこととして受け止めて、ここから新たに遣わされてまいりましょう。

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