マルコによる福音書 5:1‐20
レギオンに取りつかれた人
今日の福音書朗読は、墓場に住んでいた人の話です。当時の墓は洞穴が主流ですから、人が住もうと思えば住めないことはありません。とはいえ墓場は本来人間が生活する場所ではありません。そこは人間同士の生きた交わりのない死の世界です。
何が彼を墓場へと追いやったのでしょうか。それは「汚れた霊」だと言うのです。その人は「汚れた霊に取りつかれた人」と表現されています。その汚れた霊の名前も出ていました。「レギオン」。それはもともと6000人の兵士から成るローマの一軍団を意味する言葉でした。それほど多くの汚れた霊が、彼を支配し、彼を引き回していたのです。そして、彼は他の人と共に生きることができなくなりました。彼には家があります。家族もいるのです。しかし、彼は家族とも共に生きられなくなって、墓場の住人になってしまいました。
ここには墓場に住んでいる人はいないでしょう。しかし、私たちもまた、墓場の中にいるような生活をしていることはあり得ます。人間が生きているとは、単に生物としての生命を保持しているということではありません。人間としての生命は、他者との交わりにこそあります。神の交わり、そして人との交わり。人間は愛するとき、本当の意味で生きているのです。ですから聖書は、「愛することのない者は、死にとどまったままです」(1ヨハネ3:14)と言うのです。どんなに大勢の人々に囲まれていても、人間社会の中に存在しているように見えても、その人が憎しみの中にとどまり、すなわち死にとどまっているならば、その人は墓場にいるのと同じです。
先にも触れましたように、彼を墓場へと追いやったのは、汚れた霊でした。レギオンでした。「汚れた霊」や「悪霊」という表現に馴染みのない人もあろうかと思います。しかし、それを汚れた霊と呼ぼうが悪霊と呼ぼうが何と呼ぼうが、人間の内に働く目に見えない力によって、現実に人と人との交わりが破壊されることは起こります。
私たちは目に見える出来事を問題にし、目に見える人間の行為を問題にします。そのような目に見える出来事や人間の行為によって、人と人との交わりが壊されるのだと思っています。しかし、そうではないと聖書は言います。問題は人間の内に起こっていることなのです。人間の内に働いている目に見えない力なのです。問題は人間を支配し動かす「汚れた霊」なのです。実際、まさに「汚れた霊」としか呼びようのない力によって、国を挙げて人間同士が殺し合うということさえ起こるのです。いや現に起こっているのを私たちは知っています。
しかし、残念ながら、私たちは目に見えるものにしか目を向けない。表に現れている人間の行動、目の前に起こっている出来事にしか目を向けません。するとどうなるか。足枷と鎖に解決を求めるようになるのです。外側からの力によって、行動の自由を制限することに解決を求めるのです。
もちろん、この時代に、実際に足枷を使うことはないでしょう。しかし、鎖や足枷の代わりに、数多くの規則と厳しい罰則を用いるかもしれません。厳罰化すれば問題は解決するのだという考え方は、いつの時代にもあります。今日の日本にもそのような声は聞こえてきます。
しかし、外からの力によって行動の自由を抑制できれば、それは解決になるのでしょうか。ならないでしょう。それ以上の力が内に働けば、鎖は簡単に引きちぎられてしまうのです。いや、実際には鎖が引きちぎられていないときにも、本当の問題は内側にあるのですから、外面的には解決されたように見えても、内側には問題を残したままになるでしょう。
それはパウロという人を考えても分かります。彼は典型的なユダヤ人でした。いわば、鎖だらけ、手かせ足かせだらけの戒律社会の中に生きていたのです。しかし、そのパウロがこう叫んでいるのです。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(同18節)。
問題は内側にあるのです。なので、鎖で縛られれば縛られるほど、内面から突き上げる衝動は強くなります。汚れた霊は活発に動き出します。表面的には真面目におとなしく鎖につながれているように見えても、その魂は叫んでいるのです。「わたしは、自分のしていることが分かりません」と。そして、この男のように自分を打ちたたくようなことも起こってきます。他の誰かではなく、自分が自分を罰するのです。思い通りにならない自分が嫌で、許せなくて、自分を処罰し、自分を傷つけるのです。
鎖によって人間は救われません。戒律によって人間は救われません。いくら自分で自分を打ちたたいても、人は救われません。問題は内側にあるからです。
イエス・キリストによる解放
しかし、あの救われがたい墓場の住人は、神から見捨てられてはいませんでした。その人のところに、イエス・キリストが、嵐に荒れ狂う湖を渡って、来てくださいました。それは、全くイエス様の御心から出たことでした。イエス様が「向こう岸に渡ろう」(4:35)と弟子たちに言われたのです。
そのように湖を渡ってきてくださったイエス様のもとに、この男は墓場から出て駆け寄りました。6節には、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」た、と書かれています。彼の思いがどんなに切実であったかを、その姿が物語っています。彼は助けて欲しいのです。救ってほしいのです。足枷や鎖ではどうにもならないことは分かっているのです。自分をどんなに打ち叩いても、自分の力ではどうにもならないことを知っているのです。だから、彼はイエス様のもとに走り寄ってひれ伏しました。
ところが、彼の内側にもうひとつの声が上がります。その声は叫ぶのです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と。汚れた霊の声です。放っておいてくれ、という声です。この男はもう墓場の住人でいたくはないのです。死の中に留まっていたくないのです。変わりたいのです。だからこそイエス様に走り寄ったのです。しかし、彼の内にはもう一つの声があるのです。放っておいてくれ、と。そうです。変わりたくない。そのままでいたいのです。
イエス様の御前において、このようなことが起こります。そこには二つの選択肢があるのです。汚れた霊と一緒に「神の子イエス、かまわないでくれ」と言って、イエスから遠ざかり、イエスを遠ざけることもできます。そうすれば、これまでと変わらず、そのままでいられます。しかし、そこにはもう一つの選択肢があります。「かまわないでくれ」という汚れた霊の思いにあらがって、イエスのもとに駆け寄り、ひれ伏し、そして・・・そこに留まることもできる。実際、彼はそうしたのです。
そして、イエス様もまた、汚れた霊につかれたこの人と共に留まってくださったのです。関わり続けてくださいました。しかも、敵ではなく味方としてです。イエス様はこの人の側に立って、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われる御方なのです。
そして、あくまでもこの人の側に立って、この人の現実と向き合ってくださいました。「名は何というのか」とイエス様は尋ねます。その人を支配する霊に名前を尋ねます。人々はこの人の迷惑な行動しか見ていなかったのでしょう。だから鎖で縛ることしか考えなかったのでしょう。しかし、イエス様は違います。何が内側にあるのか。何がいったいこの人を支配しているのか。その内側にあるものを知ろうとしてくださったのです。あくまでも彼の味方として。
そして、イエス様は最終的に、この人の内にある汚れた霊から解放してくださいました。その出来事は次のように描写されています。「汚れた霊どもはイエスに、『豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ』と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」(12‐13節)。
事の成り行きを見ていた人たちがいました。「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った」(16節)。その人の身に起こったこと、彼の内側に起こったこと。そして、もう一つは二千匹もの豚が死んでしまうという被害が生じたこと。人々は二つの話を聞いたのです。そして、関心を向けたのは豚の方なのでしょう。こんな恐ろしいことをする人間と、一緒にいることはできない。「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」(17節)。人は外側のことしか見ようとはしないものです。しかし、本当に偉大なことは、彼の外に起こったことではなく、彼の内側に起こったことでした。
彼は一緒に行きたいとイエスに願います。しかし、主はお許しにならないでこう命じられました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(19節)。死の中にいた彼は命の中に帰っていきます。墓場の住人は人々との交わりの中に帰っていきます。家族の関係の中にも彼は戻って行くのです。彼の外にあるものが変わったからではありません。内側が変わったからです。
主によって取り扱われなくてはならないことは、人の外にあるのではなく内側にある。そして、主は憐れみをもって取り扱ってくださいます。そのように、主は私たちのところにも来てくださったではありませんか。そして、主は私たちにも言われるのです。「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と。さあ、ここから共に遣わされてまいりましょう。
(祈り)