ヨハネによる福音書 17:1-5
永遠の命などいらない?
使徒信条の最後の言葉は「とこしえの命を信ず」です。今日の福音書朗読にも「永遠の命」という言葉が出てきました。ヨハネによる福音書には何度もこの言葉が出てきます。よく知られているのは3章16節でしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。
イエス・キリストが来られたのは、私たちが「永遠の命」を得るためだと聖書は言います。しかし、そう言いますと、「永遠の命などいらない」と仰る方もおられます。そんなのまっぴらごめんだ、と。確かに、「永遠の命」をただ「ずっと長く生きること」と理解するならば、その言葉もうなずけます。生きることが苦しみの連続である人にとっては、それが終わらないということは地獄以外の何ものでもありません。「永遠の命」が「不死」を意味するならば、「そんなものいらない」と言う人がいても不思議ではありません。
「不死」ではないにせよ、日本は世界一の長寿国です。様々な健康法が開発され、医学も進歩しました。iPS細胞による再生医療が実用化するならば平均寿命は飛躍的に伸びるかもしれません。しかし、日本人は長寿であるから幸せかと問われるならば、必ずしもハイとは答えられないでしょう。明らかに、人間にとって重要なのは単に命の「長さ」ではないのです。そうではなくて命の「質」なのです。どのように生きているのか、ということなのです。
聖書が「永遠の命」について語る時、それは「長さ」の問題ではないのです。それは「質」の問題なのです。どのように生きるのか。人はどのように生き得るのかということなのです。そこで心に留めたいのは、今日の福音書朗読の中で読まれたイエス様の言葉です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)。
永遠の命とは神を知ること
主はまず「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」と言われました。神を知ること。それは単に神についての知識を得ることではありません。神を知ること。それは愛と信頼における神との交わりです。それが何を意味するのかは、この祈りそのものがよく表しています。
これは最後の晩餐において最後に捧げられた祈りです。主は間もなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられることを知っているのです。ですから主は祈りの中でこう言われます。「父よ、時が来ました」(1節)。それは十字架にかけられる時に他なりません。しかし、そこで主はこう続けるのです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。
これは驚くべき言葉ではありませんか。「時が来ました」。その十字架の時は、イエス様が最も惨めな姿で死んでいく時なのでしょう。しかし、イエス様にとって、それは父の栄光を現す時なのです。イエス様は父なる神への愛と信頼のゆえに、ただ父の栄光を現すことを願うのです。
父の栄光を現すこと――イエス様にとってそれは、自分に与えられた使命を果たすことに他なりませんでした。主は心の中で既に十字架にかけられた自分自身を見ています。しかし、それが全てではありません。既にその先を見ているのです。すべてを成し遂げて父のもとに帰って行く時を思いつつ祈っているのです。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と。既に成し遂げた喜びに溢れているのです。
十字架を前にして、しかし喜びに溢れて、愛と信頼をもって「父よ、父よ」と繰り返されるイエス様の祈りの姿。これが父を知る子の姿です。「知る」とはこういうことです。単なる知識ではありません。愛と信頼における交わりです。そのようにイエス様が見せてくださった父なる神との交わりに、私たちもまた入れられること。そのように永遠なる神を「知る」こと。それが永遠の命だと言うのです。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。
永遠の命とはイエス・キリストを知ること
しかし、イエス様はただ「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」とだけ言われたのではありません。続けて「あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われたのです。この二つは、イエス様の中では切り離すことのできない一つのことだったのです。
イエス様は既に成し遂げられたかのように、喜びに溢れて「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と祈りました。そして、福音書を読み進んでいきますと、その同じ言葉を人々は十字架の上から聞くことになるのです。イエス様は十字架の上で叫ばれたのです。「成し遂げられた」と。ヨハネによる福音書においては、これがイエス様の最後の言葉です。「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(19:30)。
何が成し遂げられたのでしょう。「行うようにとあなたが与えてくださった業」とは何なのでしょう。それは「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)となることでした。世の人の罪を代わって背負って死んでいく犠牲の小羊となること、罪を贖う犠牲となることでした。何のためですか。私たちが、罪を赦された者として、神との交わりに入れられるためです。イエス様が見せてくださった父と子との交わりに、私たちもまた入れられるためだったのです。すなわち、神を知るためです。ですから、それはまた神が遣わされたイエス・キリストを知ることでもあるのです。
そのように、人はイエス・キリストの成し遂げてくださった救いの御業のゆえに、罪を赦された人として、永遠なる神との交わりに生きることができるのです。そのように唯一のまことの神を知ること。神が遣わされたイエス・キリストを知ること。それが永遠の命です。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。
そして、神を知ること、イエス・キリストを知ることが永遠の命であるならば、その命は何ものによっても奪われることはないのです。それはいかなるこの世の権力によっても、あるいは不治の病によっても、死によっても奪われることのない命です。なぜなら、何ものもイエス・キリストにおける神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。神との交わりを奪うことはできないからです。それが「永遠の命」です。
この世において永遠の命を生きる
さて、今日は5節までお読みしましたが、この祈りは、さらに弟子たちのための祈りへと続きます。そこで、「永遠の命」について、さらにもう一つのことに目を向ける必要があります。主はこのように祈っておられます。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。
「わたしたちのように」と主は言われます。既に見てきたように、それは父と子との間における愛と信頼における交わりです。それは主が見せてくださった「永遠の命」そのものでした。そして、私たちをその交わりに招いてくださった主は、「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と祈られるのです。父と子との交わりが、私たちお互いの間にも実現するようにと祈っておられるのです。
一つとなることは困難であることを私たちは知っています。なぜなら、人間はどこまでも自己中心だからです。自分が何を得られるかということが関心の中心にあるからです。他者に与える時にも、他者に仕える時にも、それによって《自分》が何かを得られるかという動機がその奥にあります。だから、その何かが得られなければ不満が生じ、怒りが生じ、決裂が起こります。そのような人間が複数存在する時に、一つとなることは難しい。それがたった二人であっても、一つとなることは難しい。私たちはそのことを良く知っています。
しかし、主は、「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と祈られるのです。父なる神と御子なるイエスは、愛と信頼に満ちた交わりにおいて、永遠の命を見せてくださいました。その父と子とのように、私たちが、この世にあるお互いの関係において、永遠の命を生きることを、主は望んでおられ、祈っておられるのです。
そして、私たちはその主が捧げられた祈りの具体的な実現を、私たちは主の日の礼拝において実際に経験させていただいているのです。自己中心の人間世界に生きている私たちが、それゆえに一つとなることが難しい私たちが、主の日の礼拝における主との交わりにおいて、私たち自身が一つとされることを経験させていただいているのです。言い換えるならば、私たちはここにおいて永遠の命を味わい始めているのです。主の日の礼拝とはそのような場なのです。
間違えてはなりません。私たちは単に自分の宗教的なニーズを満たすために集まっているのではありません。もしそうならば、自己中心である人間のこの世の営みの延長に過ぎません。そうではなくて、神の民が主の御前においいて一つとされ、永遠の命を生きるようにと集められているのです。そして、その永遠の命を生きる者として、この世へと遣わされていくのです。永遠の命を与えるために来られたキリストの御救いを証しするために。
(祈り)