2022年4月3日日曜日

「あなたは今どこに立っていますか」

ローマの信徒への手紙 5:1‐11

神の栄光にあずかる希望
 パウロは今日の聖書箇所で「苦難をも誇りとします」と語っています。「誇りとする」は「喜ぶ」とも訳せる言葉です。「苦難を喜ぶ」。不思議な言葉です。しかし、実際には「苦難」を肯定的に捉えるものの見方は、この世において決して珍しくはありません。「艱難汝を玉にす」と言われ、「堪忍は一生の宝」とも言われます。

 しかし、パウロは世の中の一般的な格言を語っているのではありません。1節に明らかなように、彼は信仰に関わることを語っているのです。正確に言いますと、そこに書かれているように、「信仰によって義とされた者」について語っているのです。

 「信仰によって義とされる」とは、1節に語られていますように、「神との間に平和を得ている」ということに他なりません。罪のゆえに神との平和を失っていた者が、罪を赦され、神との正しい関係に回復され、神との間に平和を得たのです。そのようにして得られた「神との平和」は、まず何をもたらすのでしょうか。――「神との平和」は希望をもたらすのです。パウロは、神との平和を得ている自分自身を次のように表現しています。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2節)。

 ここに書かれています「今の恵み」を直訳すると「その中に私たちが立っているところの恵み」となります。あたかも「恵み」という何か大きな家の中に立っているかのような表現です。今日の説教題は「あなたは今どこに立っていますか」です。その答えは、聖書によるならば、「恵みの中」ということになります。恵みという大きな家の中に立っているのです。

 しかし、それは当然のことではありません。ですから殊更に「このキリストのお陰で」と書かれています。その家の扉はキリストが開いてくださったのです。わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたイエス様が、恵みへの扉を開いてくださったのです。そして、開かれた扉を通って、恵みの中へと導き入れられたのです。

 その「恵み」の中に立っている者として、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2節)と彼は語ります。「神の栄光にあずかる」とは、神との完全な交わりであり、神との交わりの内にある本来の人間の姿の回復です。それはまさに「神の栄光にあずかる」としか表現できない、最終的な完全な救いです。

 それは「恵み」の中に立っているからこそ語り得ることだとも言えます。恵みの外には希望がなかったのです。パウロはこの手紙の3章においてこう語っています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(3:23)。「神の栄光を受けられない」とは救われないということです。人間が自分の罪を背負ったまま、罪人として裁かれ、罪人として滅びるということです。何の希望もありません。

 しかし、そこにキリストが来られて、恵みの扉を開いてくださったのです。私たちはキリストを信じる信仰によって導かれ、恵みの中に入ることができたのです。パウロはそのようにして、既に恵みの中に導き入れられた者として語っているのです。だからこそ、その幸いをこのように表現するのです。「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています!」と。そうです、神との平和を与えられ、恵みの中に立っている人は、もはや希望のない者ではあり得ません。神の栄光にあずかる希望が与えられているのです。

苦難をも誇りとします

 そのように、神の栄光にあずかる希望を与えられた者として、今、私たちは恵みの中に立っているのです。今、実際に私たちの人生に何が起こっていたとしても、今、どのような状況に置かれていたとしても、たとえ苦難の中にあったとしても、繰り返しますが、私たちは恵みの中に立っているのです。

 それゆえに、最初に見たように、パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と言うのです。その理由が3節と4節に記されています。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(3-4節)。

 苦難さえも、恵みの中にあるのです。恵みの方が苦難よりも大きいからです。私たちは恵みの中に立っているのですから苦難さえも恵みの中にある。ならば苦難は苦難に終わりません。何と書かれていますか。苦難は「忍耐」を生み出すのです。

 「忍耐」とは何でしょうか。聖書が言っている「忍耐」というのは、もともと「留まる」という意味の言葉から来ています。あえて「留まる」。言い換えるならば簡単に逃げ出さないということです。
 水は低い方に自然に流れていきます。そのように、私たちの心も自然のままでは苦しみの少ない方に、楽な方に、流れていきます。苦しいことからは逃げ出したくなりますし、難しいことは投げ出したくなります。ふと気づいてみると、いつも捜しているのは楽に逃れる方法です。逃げ道です。

 しかし、もう一方で、私たちは良く知っているのです。苦しみから逃げたところで、その先には別の苦難が待っている。そこからまた逃げても別な苦しみが待っている。苦しみの全くない人生などあり得ないのです。ある程度長く生きていれば老いをも経験し、最後には誰もが死と向き合わなくてはならなくなります。最後には逃げられなくなるのです。逃げ道を見つけることが上手であることは何の解決にもなりません。

 本当は分かっているのです。私たちに必要なのは、逃げ道などではなくて、現実と向き合うことのできる勇気なのです。現実としっかり向き合い、必要ならばそこに留まることのできる力なのです。それを聖書は「忍耐」と呼ぶのです。

 人間が逃げないで、留まるときに、そこで大事なことが見えてきます。苦難の中で、私たちはいったい誰に信頼して生きるのか、ということです。そこにおいて神に信頼して生きるということが、本当の意味でリアルに重要になってまいります。その意味において、苦難は信仰を成長させる契機となるのです。忍耐をもって留まるときに、そこで信仰が育つのです。そのように成長した信仰者の姿、火で精錬されて純化された金属のような信仰者の姿。それを表現しているのが「練達」という言葉です。

 そして、「練達」が与えられ、信仰が確かにされるとどうなりますか。信仰が確かになるということは、希望が確かになるということでもあるのです。こうして神の栄光にあずかる希望がさらに確かにされていくのです。

 希望があるゆえに、苦難から忍耐へ、忍耐から練達へ、練達から希望へ。――このような良き循環を支えるのは、繰り返しますが、「恵みの中に立っているのだ」という自覚です。そして、恵みの中に生きる者の心に注がれる神の愛です。苦難の中にあってなお、その心の中に注がれる神の愛です。ですからパウロは確信をもって次のように宣言するのです。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5節)。

神の愛が心に注がれているから
 そこで、パウロはさらに「神の愛」の何たるかを説き明かし、希望の根拠を明らかにしていきます。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(6‐8節)。

 パウロはここでキリストについて語ります。ナザレのイエスというお方としてこの地上を歩まれ、十字架にかかられて死なれた方のことを語り始めるのです。神の愛はどこにおいて示されたのか。それは十字架にかかられたキリストにおいてだと言うのです。

 「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」(7節)。これが人間の理解できる限界です。自分自身が価値を見出すことができるもののためになら命を捨てることができる。それは理解できます。しかし、キリストにおいて示された神の愛とはそのような限界を越えています。価値ある者のためではなく価値なき者のために、義しい人のためではなく罪人のために、キリストは死んでくださいました。

 私たちが信心深かったからではありません。私たちが強く、正しい人間であったからではありません。弱く、不信心であり、罪人である私たちのためにキリストは死んでくださいました。それは私たちの罪が赦されて義とされるためでした。私たちが神との間に平和を得るためでした。このキリストの十字架にこそ、神の愛は示されたのです。

 5節に語られている神の愛とは、この愛に他なりません。つまり、「聖霊によって心に神の愛が注がれる」とは、十字架において示された神の愛が分かるということなのです。時間的にも空間的にも離れているあの出来事の中に神の愛を見、その愛をもって今この私もまた愛されているのだ、ということが分かるということは決して当たり前のことではありません。その理解は人から生じるものではありません。神だけが為しえることです。それゆえ「聖霊によって」と書かれているのです。神の霊によって神の愛を知るのです。

 私たちはレント(受難節)の期間を過ごしています。私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様の御苦しみに心を向けて過ごすように、私たちに与えられている特別な期間です。ですから、私たちは節制し、この期間をふさわしく過ごそうと努めます。しかし、この期間において本当に大きなことは、私たちが行う何かではありません。本当に大きなことは、聖霊によって神が私たちに為そうとしておられることです。すなわち、キリストの御苦しみを指し示し、十字架において現された神の愛を悟らせ、聖霊によって私たちの心に神の愛を注ごうとしていてくださるのです。そして、私たちを神の栄光にあずかる希望を誇りとする者として、苦難をも誇りとする者として、確かに恵みの中に立っている者として生かそうとしていてくださるのです。事実、私たちは恵みの中に立っているのですから。

 レントの期間もあと二週間弱となりました。私たちは残された期間、どのように過ごしたらよいのでしょうか。主はどのような導きを与えてくださっているでしょうか。
(祈り)
 

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