2022年3月30日水曜日

祈祷会用:マルコによる福音書 14:3~9

 マルコによる福音書 14:3-9

 イエス様はベタニアのシモンの家で、食事の席に着いておられます。そこに香油の壺を持ってきた女性が入ってきました。そして、いきなりイエス様の頭に香油を注ぎかけます。香油の入った石膏の壺を壊したというのですから、中に入っていた香油を全部注いでしまったということです。イエス様の髪の毛も髭も衣服も香油でベタベタです。その部屋にはむせ返るような強烈な香油の臭いが充満していたに違いありません。その臭いは当分消えることはないでしょう。もはや食事どころではありません。これが起こった出来事です。

 この人はいったい誰なのか。何故このようなことをしたのか。マルコによる福音書には何の説明もありません。彼女が持ってきたのは「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺」でした。後で人が言っているように、それは三百デナリオン以上もするものでした。三百デナリオンと言えば労働者の一年分の労賃です。そのように高価なものをどうして、よりによって頭に注いだりしたのか。

 一つ考えられることは、この人の信仰告白だったのではないか、ということです。この福音書の8章には、ペトロがイエス様に対して「あなたは、メシアです」と信仰を言い表したことが記されています。「メシア」とはもともと「油を注がれた者」という意味です。油を注がれて任職されるものの代表は「王」です。その意味で、ペトロがかつて「あなたは、メシアです」と言葉をもって言い表したことを、この人は自分の持てる全てを献げて言い表したと言えます。「あなたは、メシアです。油注がれた者、まことの王です」と。その意味において、彼女がしようとしたのは王の即位式だったのかもしれません。

 しかし、その意図が何であれ、「この人のしたこと」は、人々に責められるところとなりました。4節に書かれているとおりです。彼女は自分の持っているもの、恐らく全財産に相当するものを、イエス様のために用いたのです。いわばイエス様に献げ尽くしたのです。しかし、同じ献げるのならば、石膏の壺を割らないで、そのまま手渡して、「これを貧しい人々のために使ってください」という献げ方ものあったのでしょう。もしそうであったなら、この人を悪く言う人は一人もいなかったと思います。むしろ人々から賞賛されたでしょう。その人のしたことだけでなく、名前も一緒に語り継がれることになったでしょう。

 そのように世のためになる人を生み出す限りにおいて宗教にもそれなりの意味があると考えている人は少なくありません。人々が求めているのは、こういう奇行に走る人ではないのです。人の役に立つことをする立派で敬虔なクリスチャンなのです。こういう人は、ここに見るように、人々から批判されるのです。

 しかし、人々が口々に厳しく彼女を咎めていた時に、そこにいたイエス様が口を開きます。髪の毛と髭から香油をポタポタ垂らしながら、イエス様はこう言われるのです。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(6節)。この「良いこと」という言葉は、別の言葉に訳すならば「美しいこと」となります。主は「この人のしたこと」を「美しいこと」と表現されたのです。

 客観的に見るならば、美しくはありません。この話が人々の口から口へと伝えられたのは、明らかに「この人のしたこと」が人々に感動を与えたからではありません。彼女のしたことが、衝撃的だったからです。しかし、それ以上に衝撃的だったのは、このイエス様の言葉だったのでしょう。「わたしに良いことをしてくれたのだ。美しいことをしてくれたのだ」。この主の御言葉のゆえに、「この人のしたこと」は記憶され、語り伝えられることとなったのです。

 「この人のしたこと」、この人がイエス様を信じて、イエス様を愛して、イエス様を思って、自分の持てるものを精一杯献げてしたこと。それ自体が美しいからではなくて、それ自体が賞賛に値するようなことだからではなくて、ただイエス様が受け入れてくださったから。イエス様が「美しいこと」と呼んでくださったから。だから「この人のしたこと」はこの上なく美しい行為なのです。

 そして、主はさらにこう言われました。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(7‐8節)。

 マルコによる福音書の書き方ですと、この出来事が起こったのは、最後の晩餐の前日、水曜日のことです。今日の箇所はそのようなイエス様の十字架が刻一刻と迫っている場面なのです。そのことをご存知だったのは、イエス様だけでした。父なる神は、過越の小羊が屠られ献げられる祭りのただ中で、すべての人の罪を贖うまことの犠牲を屠ろうとしておられたのです。それがキリストの十字架に他なりませんでした。その時が近づいている。そのことが分かっていたのはイエス様だけでした。

 だから主は言われたのです。「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」。この女性は、王となるべき御方として、イエス様に香油を注いだかもしれない。恐らくそうなのでしょう。そして、イエス様は確かにまことの王となるべき御方です。天の王座に着くべき御方です。しかし、その前にイエス様は十字架にかからなくてはならなかったのです。私たちの罪を贖うために。私たちを救うために。それゆえに、イエス様は王として香油をお受けにはならなかったのです。そうではなくて、十字架にかけられ、葬られるべき方として、香油をお受けになったのです。「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と。

 そして、イエス様の言われたことは正しかったのです。この人以外に、主の御体に香油を塗ることのできた人は、ついに一人もいなかったのです。イエス様が処刑されたのは安息日の前日であり、日が沈む前に大急ぎで取り降ろされました。そして、ただ亜麻布で包まれただけで香油を塗られることもなく葬られたのです。安息日が明けて、女たちが香料をもって墓に行った時には、既にイエス様は復活してそこにはいませんでした。ですから、この人こそ、葬りのためにイエス様の体に香油を塗ることができた、唯一の人だったのです。

 この人は後に真実を知って、どれほど驚いたことでしょう。わたしの献げ物と奉仕を受け入れて、「美しいこと」と呼んでくださったあの御方、イエス様はわたしのためにも十字架におかかりくださった。そのような御方として、わたしから香油を受けてくださったのだ、と。

 そして、あの時、ナルドの香油をささげた彼女は、十字架によって救われた人として、自分自身とその人生を献げて、主にお仕えしたに違いありません。多くの「美しいこと」をもって主にお仕えしたに違いありません。人が「美しいこと」と見るからではなく、私たち自身がそう見るからでもなく、ただ主がそう呼んで受け入れてくださるゆえに「美しいこと」――それがキリスト者の献身であり奉仕です。主の十字架によって、主の救いによって初めて成り立っているのが、私たちの献身であり奉仕なのです。

 主は言われました。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。かくして、「この人のしたこと」は語り伝えられてきました。福音と共に。福音と共にあったからこそ、語り伝えられてきたとも言えるでしょう。この人の名前ではなく、「この人のしたこと」が。


(祈り)

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