2022年4月10日日曜日

「立て、さあ行こう」

マルコによる福音書 14:32-42

立て、行こう
 「立て、行こう」と主は言われました。以前用いられていた口語訳聖書では「立て、さあ行こう」と訳されていました。説教題はそちらから取りました。

 「立て、行こう」。その言葉は、弟子たちにとって、深い心の痛みと共に記憶された言葉であったに違いありません。というのも、それはイエス様が苦しみもだえて祈っていた時に、その傍らで眠りこけていた弟子たちに語られた言葉だったからです。

 しかも、眠りこけていたのは一度ではありません。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか」(37節)。そう言われて、なおも同じ失敗を繰り返した時、弟子たちは「イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」(40節)と書かれています。

 そして、三度目。もはや弁解の言葉もありません。その時に主はこう言われたのです。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(41‐42節)。

 それだけではありません。「立て、行こう」と主は言われたのですが、弟子たちは結局最後まで主と共に行くことはできなかったのです。この直後に、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいます。遠く離れてついていったペトロも、結局は三度主を否んでしまいます。そのように、「立て、行こう」という主の言葉は、全く情けない惨めな自分自身を認めざるを得なかった状況において、深い心の痛みと共に記憶された言葉であったに違いないのです。

 しかし、その言葉を彼らは記憶から消し去ろうとはしませんでした。一生誰に語ることもなく自分の心の奥深くにしまい込んでしまうこともできたのでしょう。しかし、彼らはそうしなかった。彼らは自分たちの恥をさらしながら語り始めたのです。惨めなありさまをさらけ出しながら、あの時のことを語り続けたのです。だからこそ、聖書にまで書き記されて公に読まれることとなったのです。

 それはなぜか。「立て、行こう」という言葉に従えなかった、あの日で終わりにはならなかったからです。イエス様の心も知らずに眠りこけていた弟子たちのままで終わらなかったからです。イエス様を見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのままで終わらなかったからです。イエス様を三度否んだペトロで終わらなかったからです。そのまま主は捕らえられて十字架にかけられて死んで、それで終わりにはならなかったからです。主は復活されたのです。そして、復活の主が彼らを再び招いてくださったのです。

 彼らにはよくわかったのでしょう。あの時、イエス様は眠りこけていた彼らが、すぐに自分を見捨てて逃げ出すことも、ペトロが三度否むことも全部承知の上で、「立て、行こう」と言ってくださったのだ、ということを。それゆえに彼らは改めて復活の主から、赦しの恵みと共に、「立て、さあ行こう!」という言葉を受け取ったのです。そして、主がかつて言われたように、今度は自分の十字架を背負って従って行ったのです。

 そして、代々の教会もまた、そのように主が語られる「立て、さあ行こう」という言葉を聞き続けてきたのです。その言葉をゲツセマネの園における物語と共に聞き続けてきたのです。

御心に適うことが行われますように
 ゲツセマネの園に目を移しましょう。そこに見るのは、ひどく恐れ、苦しみもだえ、悲しみにうちひしがれながら祈るイエス様の姿です。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(34節)。そして、主は少し進んで行って、地面にひれ伏して、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われたのでした。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(36節)。

 取りのけてほしい「この杯」とはいったい何なのでしょうか。十字架につけられて殺されること――確かにそうです。しかし、それが意味するのはただ単に肉体的・精神的苦痛ではありません。確かに十字架刑は残酷な刑罰です。しかし、十字架刑によって殺されたのは何もイエス・キリストだけではないのです。現にイエスと共に二人の犯罪人が十字架にかけられていたことを私たちは知っています。

 肉体的・精神的苦痛を言うならば、世の中にはもっと大きな苦しみを味わいながら死んでいった人もいたはずです。イエス様が「この杯」と呼んでいるものが、そのように既に誰かが経験したことのある苦しみであろうはずがありません。「この盃」――それはメシアとしての苦しみでした。それは、私たちの救いのために、全ての人の罪を代わりに背負って、神に裁かれて死んでいくことを意味したのです。

 私たちは確かに自分が罪人であるとは思っています。この世が罪に満ちた世界であることも知っています。しかし、自分についてもこの世についても、罪の大きさを本当の意味では知らないのです。罪が正しく裁かれ、その審判に従って報いられることが、どれほど恐ろしいことであるか、私たちは知らないのです。それを本当に知っていたのはイエス様です。罪が何であるか。罪ある者が赦しを得るために、身代わりに罪を背負うということがどういうことであるか。それがどれほど恐ろしく、悲しく、苦しいことであるか。それを知っていたのは、本当の意味で父なる神を知るキリストだけでした。

 だから主は恐れたのです。そして願い求めたのです。「この杯をわたしから取りのけてください」と。しかし、そのキリストの願いに対する答えは、神の沈黙でした。沈黙しておられる神に主は呼びかけます。「アッバ、父よ」と。どこまでも信頼を込めて「アッバ」と呼びかけるのです。

 そのようなイエス様にとって、父の「沈黙」は明確な父の答えに他なりませんでした。主は分かっていたのです。神の揺るぎない御心があることを。断固として、人間の救いを実現しようとしておられることを。それゆえ主は祈ります。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)。

誘惑に陥らないために祈りなさい
 しかし同時に、父の御心に信頼をもって従うことが決してキリストにとって容易なことではなかったことをも、私たちはここに伝えられているのです。イエス様の祈りの言葉は先に見たとおり、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と記されていました。それはある意味では完結した祈りです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と言うならば、それ以上語るべき言葉はないでしょう。しかし、39節にこう書かれているのです。「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」。

 もちろんこれは単に二回祈ったという意味ではありません。最初の時に弟子たちは眠っていたので聞き逃しているはずですから。二回目が同じ言葉であることは分かりません。さらに言えば、二回目の時も眠っていたのですから、同じ言葉で祈っていたのをいったい誰が聞いていたのでしょう。

 要するに考えられることは、弟子たちが眠りこける前から、イエス様は同じ言葉で繰り返し祈り続けていたということです。あるいはルカによる福音書では「いつものようにオリーブ山に行かれると」(ルカ22:39)、「いつもの場所に来ると」(同40節)と書かれていますから、イエス様はエルサレムに来られてから毎日のようにそのように祈っていたのかもしれません。

 「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。言葉として口にするのは簡単です。しかし、神の御心として苦しみを受け取ること、父の愛を信じて受け取ることはとても難しい。それはイエス様にとっても難しいことだったのです。苦しみの中で繰り返される祈りなくしては、できないことだったのです。

 そのような祈りなくして、最終的に自ら立ち上がり、「立て、行こう」と前に向かって歩み出すことはできなかったのです。イエス様でさえそうだった。弟子たちならなおさらです。ですから主は弟子たちに言われたのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(38節)。

 「立て、行こう」と言われる方に従おうとする時、その御方に従うゆえに、時として負わなくてはならない苦しみがあり悲しみがあります。父の御心としてどうしても受け取らなくてはならない杯がある。聖書はしばしばそれらを「試練」という言葉で表現します。しかし、その同じ言葉が「誘惑」とも訳されるのです。いかなる苦しみも悲しみも「誘惑」となり得る。すなわち神から引き離す力として働くのです。そのような誘惑に陥らないためには、主がゲツセマネにおいてなさったように、同じようにするしかないのです。

 そこから「アッバ、父よ」と祈る。祈り続けるのです。そこから立ち上がって、前に歩き始めることができるまで祈り続けるしかないのです。ゆえに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と主は言われたのです。

 しかし、立ち上がる時には一人で立ち上がるのではなく、一人で前に歩き出すのではありません。聖書はキリストについてこう書いています。その御方は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)と。その御方が言ってくださいます。「立て、さあ行こう」と。

(祈り)

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