ヨハネによる福音書 20:11‐18
美しい再会の場面
週の初めの日、つまり日曜日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。イエス様の遺体に香料を塗るためでした。愛するイエス様が死んでしまった。せめてその遺体に香料を塗ってさしあげたい。そう思って彼女は墓に向かったのです。
しかし、墓に着いてみますと、なんと墓の入り口を塞いでいたはずの大きな石が取りのけてありました。見るとイエス様の遺体がありません。誰かが持ち去ってしまった!彼女はそう思いました。すぐにペトロのところに行ってこの事態を伝えます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(2節)。
その後に、ペトロともう一人の弟子が墓に走って行ったという話が続きます。彼らが墓に行って中をのぞいてみると、聖書には「亜麻布が置いてあった」と書かれています。彼らがそれを確認したことが、細かく描写されています。それは要するに、《マリアは間違っていた》ということを示しているのです。
死体を持ち去るのに、わざわざ亜麻布をほどいて中身だけを持って行くような人はいません。マリアは明らかに間違っていた。「主が墓から取り去られた」のではないのです。彼女がまだ気付いていない大事なことがあるのです。
そのように大事なことにまだ気付いていないから、彼女は泣き続けます。それが今日お読みした場面です。「マリアは墓の外に立って泣いていた」(11節)。泣きながら、墓の中を見ると、「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた」と書かれています。彼らは言いました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」(13節)。
しかし、マリアはなおも泣き続けながら言います。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら、後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた、と書かれています。ところが、それがイエス様だとは気付かない。本当はイエス様がすぐ近くにおられるのに、マリアは気付かない。そう、彼女が気付いていなかった重大なこと――それは、イエス様が復活なさったこと、イエス様は生きておられ、しかも彼女のすぐそばにおられる、ということだったのです。
彼女はそのことに気付いていなかった。だから、再びイエス様を背にして泣き続けます。そのようなマリアに主は言われます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」天使と同じ事を聞かれます。しかし、マリアは園丁だと思って、泣きながら答えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
すると、イエス様はただ一言、「マリア」と声をかけられました。「マリア」――。その一言で十分でした。マリアには分かったのです。自分の名前を呼ぶその声で分かった。彼女は振り向いて言いました。「ラボニ」すなわち「わたしの先生」。これまでいくどとなくそう呼んでいたように、いつものようにイエス様を「ラボ二」と呼んだのです。聖書の中で最も美しい再会の場面です。
なぜ泣いているのか
さて、今日の聖書箇所では「泣く」という言葉が繰り返されています。マリアが「泣いていた」ということが、殊更に強調されています。彼女は、まさに泣くことしかできない者としてそこにいるのです。死んでしまったイエス様に香料を塗ることだけが、彼女にできるせめてものことでした。しかし、その遺体さえも無くなってしまった。もう泣くしかありません。
いや、泣くことしかできない者として泣いていたのは、この時だけではないでしょう。イエス様が捕らえられてしまったとき、彼女はどうすることもできなかった。イエス様が十字架を背負ってゴルゴタの丘へと向かっていた時、彼女はどうすることもできませんでした。手足を釘で刺し貫かれて、イエス様が叫び声を上げているとき、彼女はどうすることもできませんでした。イエス様が十字架の上で息絶えようとしていたとき、彼女はどうすることもできませんでした。そして、イエス様は物言わぬ屍として取り降ろされ、墓に葬られました。そこで彼女はただ泣くことしかできなかったのでしょう。
人と人との間を引き裂き、引き離す、死の力は残酷です。そして、その残酷な死の力に対して人間は無力です。どんなに愛していても、どんなに大切に思っていても、死の力は奪い去っていきます。その残酷な現実を、遠い国の戦争の報道において毎日知らされます。そして、私たちの人生においても、繰り返し、繰り返し思い知らされます。その残酷な死の力の支配の前に、人間はただ泣くしかない。その点においては、あのマリアも二千年後に生きている私たちも同じです。
しかし、そのような私たちに、今日の聖書箇所は一つの大事な出来事を伝えているのです。あのとき、あそこで、確かに泣くことしかできなかったマリアだったのだけれど、その彼女に語り掛ける声があった。「なぜ泣いているのか」。彼女は二度も耳にしたのです。「なぜ泣いているのか」。ただ泣くことしかできないマリアだけれど、本当はもう泣く必要はなかった。聖書はそのことをはっきりと示しているのです。なぜ、泣く必要はないのか。そこにイエス様がおられるからです。共におられるからです。彼女はただ気づいていないだけだからです。
彼女が泣く必要がないのは、死んだと思っていたイエス様が《死んでいなかったから》ではありません。イエス様は《復活して》そこにおられるのです。すなわち、残酷な死の力を打ち破ってそこにおられるのです。死を打ち破ったイエス様が共におられるならば、人間がどれほど無力であっても、もはや死は人間を絶望させることはできないということでしょう。だから泣く必要はない。マリアは、まだ気づいていないだけなのです。
わたしにすがりつくのはよしなさい
では、どうしてマリアは気づいたのか――。復活したイエス様の姿を《見た》からではありません。聖書はあえてそのことを強調して書いています。後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが「見えた」。しかし、「見えた」その時には気づかなかったのです。気づいたのはその姿によってではなく、その「言葉」によってでした。「マリア」という呼びかけの言葉。それはただ音声としての言葉が耳に聞こえたということではありません。その言葉が心に届いた。心に響くイエス様の声、その御声を通して、「ああ、イエス様が近くにいてくださったのだ、気づく前から本当はそこにいてくださったのだ」と分かったのです。
そのように、マリアがイエス様に気づいたのは、目に見えるその姿によったのではありませんでした。ですから、目に見えるその姿にすがりつこうとするマリアに対して、イエス様は言われるのです。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。
イエス様は「わたしの父…のところへわたしは上る」と言われました。イエス様は父のもとに、天に帰って行かれるのです。確かに、イエス様は復活されてマリアに現れました。後に弟子たちにも現れます。しかし、それはある限られた特別な出来事です。ずっと続くのではありません。イエス様は天に帰られ、目に見えない御方となられるのです。いつまでも、見える姿で現れたキリストにしがみついていてはいけない。イエス様は目に見えない御方でよいのだ、ということをマリアは理解しなくてはならなかったのです。
実際、彼女が見る前から、イエス様はすぐ近くにいてくださったのです。マリアが泣いていたとき、イエス様は既に彼女の近くにいてくださったのです。後ろを振り向いてもまだ分からなかった。でも彼女が分からなかったときにも、イエス様はそこにいてくださったのです。「なぜ泣いているのか。もう泣かなくても大丈夫」と言ってくださる方が、一緒にいてくださったのです。
繰り返しますが、そのことに気づいたのは、イエス様の呼びかけの声が心に響いた時でした。実際、マリアはイエス様が天に帰られた後も、繰り返しこの呼びかけを心に聞いていたことでしょう。たとえ、その御方が目には見えなくても。――そして、それは後の弟子たちの経験であり、後の教会の経験でもあったのです。それゆえに、この一人の人に起こった特別な出来事を、世々の信仰者は自分のこととして読んできたのです。
今日はイースターです。キリストの御復活をこうして毎年私たちは祝います。私たちはマリアのように目に見える姿で復活の主と相見えるわけではありません。しかし、私たちもまた知っています。イエス様が私たちに呼びかけてくださること。死を絶望ではなくしてしまったお方が、今も私たちに語りかけてくださること。そして、復活されたキリストの御声が心に届くとき、私たちは改めて知るのです。ただただ泣くしかなかった時にも、私たちが気づかなかっただけで、イエス様はすぐ近くにいてくださったのだということを。