2022年4月24日日曜日

「見ないで信じる者は幸いです」

ヨハネによる福音書 20:19‐31

第一の日であり第八の日
 復活したキリストが弟子たちに現れたのは、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」であったと書かれています。「週の初めの日」とは、私たちが「日曜日」と呼んでいる日のことです。次に主が現れた日は「八日の後」(26節)と表現されています。これは「八日目」と訳しても良いのですが、要するに「一週間後」です。やはり日曜日のことです。

 ここに「八日の後(八日目)」という表現が出てくることには意味があります。ユダヤ人の安息日は土曜日です。週の七日目です。現在もそうです。これは天地創造物語で、創造の業を終えられた神が七日目に安息された、という話に由来しています。ところがキリスト者は、極めて早い時期から、七日目の安息日ではなくて週の初めの日を「主の日」と呼んで、その日に集まるようになりました。今日、私たちがそうしているようにです。

 そして、その週の初めの日である主の日を、古代のキリスト者たちは、わざわざ「第一日」ではなくて「第八日」と呼ぶようになったのです。なぜ「第八日」なのか。神様の最初の創造が第一日から第七日によって表現されているとするならば、第八日はそれに属さない日だということです。新しい創造、新しい世界に属する日だということです。つまりこの世にありながら、来るべき世を経験する日、完全なる救いの世界を経験する日だということです。そういう意味で「第八日」なのです。

 今日お読みしました聖書箇所は、「週の初めの日」と「八日の後(第八日)」について語っているのです。つまり今日の聖書箇所が私たちに伝えようとしているのは、単に「あの日にこんなことがありました」ということではないのです。「私たちが集まる主の日に、いったい何が起こるのか」ということなのです。

逃げてきた物の集まり
 それでは、週の初めの日の「弟子たちの集まり」が、当初どのように描写されているかに目を向けましょう。次のように書かれています。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)。これが弟子たちの集まりの最初の姿です。それは《恐れのゆえに逃げてきた者の集まり》でした。その場所は、恐ろしい世から逃れる場所でした。戸に鍵をかけて、閉じこもる場所でした。

 そこに集まっている弟子たちには、共通していることがありました。みんなイエスを見捨てて逃げたということです。皆が同じ弱さをさらけ出しました。弱さをさらけだしたのが、自分だけでないというのは、ある意味でありがたいことです。他にも自分と同じような人がいると安心です。他の人の弱さを見て安心し、ただ傷をナメあっているだけの集まり。弟子たちの集まりもまた、そうなる可能性はありました。

 もし19節の前半までがすべてであるならば、弟子たちの集まり、すなわち後の教会は、世にも惨めな集団でしかありません。しかし、聖書はその先を語るのです。あの時、弟子たちの集まりは19節の前半で終わらなかった。確かに恐れがあったかもしれません。弱さもあったかもしれない。しかし、それで終わらなかったのです。何と書かれていますか。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19節)。そうです、弟子たちの集まりに復活されたイエス様が来られた。それが主の日に起こることなのです。

あなたがたに平和があるように
 主が来られて何が起こっているでしょう。20節を御覧ください。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)。ここには驚くべきことが書かれています。イエス様が復活して現れたということではありません。「弟子たちは、主を見て喜んだ」ということです。本来なら、それはあり得ないことです。主がお見せになったのは、手とわき腹でした。そこには大きな傷があるのです。主が苦しみ抜かれた十字架刑のゆえの傷です。手とわき腹を見せるということは、まさに彼らの裏切り、彼らの過去の罪を突きつけているようなものではありませんか。

 しかし、彼らは「主を見て喜んだ」と書かれているのです。なぜですか。20節の「そう言って」という小さな言葉が重要なのです。主は「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。罪を突きつけ、断罪することのできるはずのお方が、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。そこにあるのは罪の赦しです。彼らは復活の主によって赦された人々としてそこにいるのです。

 これが主の日に起こることです。主の日に集まる時、復活の主が来られる。そこでまずは罪が明らかにされ、罪の現実が突きつけられます。いわば手とわきを見せられるのです。あなたの罪のために十字架で死んだのだ、と。しかし、そのイエス様が、私たちにも「平和があるように」と語ってくださるのです。

トマスにも現れて
 弟子たちが受けたことを、さらに一人の人物に焦点を当てて語っているのが、24節以下に書かれている物語です。

 ここにトマスという人物が登場してまいります。彼は、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言ったとき、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったのです。これは変な話です。他の弟子たちは「主を見た」と言っていたのですから、本来は「わたしも主を見るまで信じない」と言うのが普通でしょう。釘跡に指を入れるなどということを、普通の人は言いません。

 明らかに彼は、異常なほどに「釘跡」と「わき腹の傷」にこだわっているのです。それはすなわち、トマスがイエス様を思い出そうとするとき、彼の脳裏に浮かんでくるのはイエス様の優しい笑顔などではなかったということです。今思い出せるのは、太い釘で貫かれた手と足。その傷から流れ出る真っ赤な血潮。そして、既に息絶えたイエス様の体を貫くローマ兵の長く太い槍。その傷口から滝のように流れ出る真っ赤な血しぶき。それしか思い出せないということでしょう。

 しかも、その姿を思い出している自分は、今なお生き延びているのです。なぜですか?逃げたからです。本当は、一緒に死ぬつもりでいたのです。かつてイエス様がユダヤに向かおうとした時、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)と言ったのはこのトマスでした。しかし、自分は逃げた。そして、イエス様は死にました。手には大きな穴が開き、わき腹には大きな傷を持つ死体となりました。

 そんなトマスにとって、同じように主を見捨てた他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言って喜んでいる姿がどのように映ったか、想像するのは難しくありません。それは、まことに赦しがたい姿であったに違いない。だから、「わたしは決して信じない」と言ったのです。そんなこと信じないで、見捨てて逃げた自分の罪に苦しみながら生きていく方が、ずっと真実で正しいことのように思えたことでしょう。

 しかし、イエス様は、そのようなトマスに現れてくださったのです。確かにトマスの生き方は真実かもしれない。けれどトマスが一生罪の重荷を負い続けて生きることをイエス様は望まれませんでした。

 トマスが考えていたように、確かにその手には釘の跡がありました。過去の罪が水に流れて消えてしまうわけではありません。罪の事実は消えません。しかし、イエス様はトマスにも言ってくださったのです。「平和があるように」と。そして、主は言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。現に目の前に現れたイエス様を見ているのに、本来信じるも信じないもないでしょう。しかし、トマスにはこの言葉が必要でした。これは明らかに「わたしは信じない」と言っていたトマスへの呼びかけです。――「わたしは決して信じない」なんてもう言わなくていい。わたしが復活して、「平和があるように」と言ってここ共にいることを、平和を与えようとしていることを、信じてもいい。主はそう言っておられるのです。そうです。トマスは、イエス様によって赦され、平和を与えられた者としてそこにいるのです。

 トマスは信じました。だから、トマスはひれ伏したのです。「わたしの主、わたしの神よ」。彼はもはやただ罪を負い続けて生きていく人ではありません。キリストを主として、神として従って生きて行くのです。これが第八の日である主の日に起こったことでした。

 いや、それだけではありません。なお一つのことを申し上げたいと思います。21節以下を御覧ください。第一であり第八の日に起こるのは、ただ罪の赦しだけではありません。罪の赦しにあずかり、イエス様の平和をいただいた者は、さらに主によって世に遣わされていくのです。彼らは罪の赦しにあずかり、イエス様の平和をいただいた者は、聖霊に満たされ、新しい命に満たされ、まことに「生きる者」となって、この世に遣わされていくのです。それこそが、第一であり第八の日である主の日に起こることなのです。

 そして、それは本質的には目に見えない霊的な出来事です。トマスは、復活の主を見ました。しかし、見たこと自体は重要なことではありません。主は言われるのです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)。なぜか。重要なのは目に見えない出来事だからです。

 私たちはこうして今も週の初めの日に集まります。集まっているお互いは目に見えます。説教者も目に見えます。だから主の日の集まりには確かに目に見える経験、すなわち感覚的にとらえられる経験が伴っているのでしょう。それは感動であり、喜びをもたらすかもしれません。そして、今の時代、インターネットを介して、同じ場所にいなくても目で見ることもできるし、耳で聞くこともできる。感覚的な経験を共有することもできるのでしょう。

 しかし、私たちは単に目に見えること、感覚的にとらえられることを求めて集まっているわけではないのです。主の日に起こっていることの本質は、目に見えない霊的なことなのです。それこそが目に見えることよりもはるかに重要なのです。それは人間の行うことではなく、人間が為し得ないこと、復活された主がなさることだからです。主は生きておられます。

(祈り)

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