マルコによる福音書 14:12-26
主は言われました。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」(13‐15節)。
イエス様のこの言葉は、彼らが既にいかに危険な状態にあったかを物語っています。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていました(1節)。そのような状況のもと、過越の食事の準備は秘密裏に行われなくてはなりません。集まる場所を当局に知られてはならないのです。
「水がめを運んでいる男」が目印でした。水くみは女の仕事なので、水がめを運んでいる男はそういるものではありません。だからすぐにその人であると分かります。その男を見つけたら何も言わずについて行く。そうすれば怪しまれずに過越の食事が出来る場所に着くことができます。
そのように、弟子たちが準備をする前に、イエス様が前もってその時と場所を用意しておいてくださいました。既にそこには「席が整って用意のできた二階の広間」があるのです。なぜなら、その食事を誰よりも望んでおられたのはイエス様だからです(ルカ22:15)。主が望まれ、主がその時と場所を備えておられた食事。それがあの「最後の晩餐」だったのです。
その食事が何であったのかは、22節以下のイエス様の言葉にはっきりと言い表されています。イエス様は御自分を与えようとしておられたのです。パンとぶどう酒を用意したのは弟子たちだったかもしれません。しかし、その食事はイエス様が、自分の体と血とを与えるための食事でした。「取りなさい。これはわたしの体である」と。「これはわたしの血、契約の血である」と。そして、実際、イエス様は文字通り、自分の体と血とを差し出すことになることをご存知だったのです。
そのように主の十字架によって救われる全ての人に先立って、主の食卓に招かれたのが、あの十二人でした。主は御自分を与える食事のために、その時と場所とを備えられました。それゆえに、これは「最後の晩餐」と呼ばれますが、実は最後の晩餐ではないのです。彼らが受けるのは、救いのために裂かれた体であり、血であるからです。ならば、それが最後になってしまうはずがありません。
主はこう言われました。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(25節)。主は十字架における御自分の死を思いつつ、その心の目は「神の国」に向けられていたのです。「神の国で新たに飲むその日」について主は語られたのです。それは神の国の祝宴です。神の愛が満ち溢れ、喜びが満ち溢れる救いの宴です。彼らは主の体と血とを受ける時、まさに神の国における完全な救いに招かれている者として、食事の席に着いているのです。
あの十二人は、そのような食事をするために、備えられた場所に向かいました。「夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた」(17節)。そうです。「十二人」――そこにはユダも含まれます。ユダもまたその食事に招かれていたのです。
今日の聖書箇所の直前にはユダの裏切りについて記されています。「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」(10節)。なぜユダは裏切ったのか。聖書には何の明確な理由も記されていません。もしかしたら、はっきりと理由が書かれていないことに意味があるのかもしれません。恐らく本当に重要なのは裏切りの「理由」ではないのです。そうではなくて、それでもなお主の食卓に招かれていたという事実なのです。
イエス様を裏切ったユダは、その後、素知らぬ顔をして仲間のところに戻ったのでしょう。そして、「夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた」。ユダの裏切りを誰も知らない。知っていたのは本人と、そしてもう一人、イエス様だけでした。
一同が席に着いて食事をしていた時に、主はこう言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。ユダの裏切りを知っていたのなら、その裏切りから身を守ることはいくらでもできただろうと思います。もしイエス様がここでユダを指差して、「この男がわたしを裏切ろうとしている」と言ったなら、きっと他の11人はユダを捕えて縛り上げたに違いありません。ユダは酷い目に遭わされたに違いない。イエス様はそのような形でユダの裏切りに対して鉄槌を下すこともできたはずです。しかし、イエス様はユダの名を口にしませんでした。
弟子たちは、裏切ったのがイスカリオテのユダだとは夢にも思っていませんでした。ですから代わる代わるに「まさかわたしのことでは」と言い始めたのです。しかし、ユダには分かったはずなのです。イエス様が誰のことを言っておられるのか、はっきりと分かったはずなのです。いわばユダだけがはっきりと分かる仕方で、イエス様はユダの心に語りかけておられたのです。「あなたのことは、分かっているよ」。ユダにはそう聞こえたに違いありません。
主はユダの名前を最後まで口にすることなく、ただこう言われました。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(20‐21節)。
イエス様が人に対して「生まれなかった方が良かった」などと言われたのは、後にも先にもここだけです。およそイエス様の口にふさわしからぬ言葉に思えます。しかし、イエス様は裏切られた自分のことを思ってこう言っているのではないのです。裏切ったユダのことを思って、こう言っておられるのです。生まれなかった方が《その者のために》よかった、と。イエス様からすれば、不幸なのは裏切られた自分ではないのです。裏切ったユダなのです。
いや正確に言うならば、不幸なのは裏切ってなお立ち帰ろうとしないユダなのです。彼は主の食卓に招かれていたのです。イエス様と一緒に鉢に食べ物を浸していたのです。イエス様はそこで御自分の体と血とを与えようとしておられたのです。だからこそ、主は愛と赦しをもってその心に呼びかけておられたのです。その食卓は、先にも申しましたように、神の国の救いへの招きでもあったからです。
しかし、それでもなおユダはイエス様の愛に心を閉ざしたままでした。彼は罪の赦しに背を向けてしまうのです。神の憐れみから自らを締め出してしまうのです。暗闇の中に出ていってしまうのです。イエス様には、もうそのことが分かっていたのかもしれません。それがどれほど不幸なことであるか、人間には分からないものです。それを一番よく知っていたのは、そして痛んでいたのは、イエス様御自身だったのです。
これが「最後の晩餐」として知られている食事の場面です。最後ならざる「最後の晩餐」です。最初に招かれたのはあの十二人でした。その食卓が、今時を経て「聖餐卓」という名をもってここにも置かれています。
ユダが招かれていたように、私たちも主の食卓に招かれています。ユダが、素知らぬ顔をして食卓に着いたように、私たちもまた、素知らぬ顔をして席に着くのでしょう。しかし、ユダのすべてをキリストがご存じであったように、キリストは私たちのこともご存じです。私たちが何を考え、何を語り、何をしてきたか、すべてご存じです。それでもなお主は私たちを愛していてくださいます。すべてを与え尽くすほどに愛していてくださいます。ユダは主の愛と赦しを受け取りませんでした。立ち返りませんでした。今日の聖書箇所は私たちに問いかけているのでしょう。あなたはどうするのですか、と。
(祈り)