列王記上22:13‐17
アハブの預言者たち
今日は第一朗読において、列王記上22章の一部が読まれました。22章は内容的に20章に続いております。
20章には北王国イスラエルとアラムとの間に起こった戦争とその結末について書かれています。アラムはイスラエルの北方の王国で、今日のシリアに当たります。アラムの王ベン・ハダドが全軍を集めて引き起こした戦争は、二回の戦闘の末、最終的にはイスラエルの勝利に終わりました。
ベン・ハダドは全面降伏し、占領地から撤退して奪った町々を返還することを約束して命乞いをします。そこでイスラエルの王アハブはベン・ハダドと協定を結んだ上で彼を帰国させました(20:34)。そして、22章に入り「3年間、アラムとイスラエルの間には戦いがなかった」(1節)と続きます。
さて、そのようにアラムとイスラエルの間に結ばれた協定でしたが、占領した町々をすべて返還するという約束は守られなかったようです。もともとベン・ハダドの目的は危機を免れることにあったので、協定を完全に履行することは初めから意図していなかったのかも知れません。
いずれにせよ、そのように返還がなされなかった町の一つがラモト・ギレアドでした。いまだにアラムに占拠されたままになっているのです。業を煮やしたアハブ王はついに軍事行動に出ることを決意します。「イスラエルの王は家臣たちに、『お前たちはラモト・ギレアドが我々のものであることを知っているであろう。我々は何もせずにいて、アラムの王の手からそれを奪い返せないままでいる』と言った」(3節)。
折しも南王国ユダの王ヨシャファトが来訪中のことでした。あるいはヨシャファトの来訪を機に軍事行動に出ることを決意したのかもしれません。もともとイスラエルの王アハブはユダの王ヨシャファトに援軍を要請するつもりでいたのでしょう。彼はヨシャファトに尋ねました。「わたしと共に行って、ラモト・ギレアドと戦っていただけませんか」(4節)。これに対してヨシャファトは「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です」(同)と言って要請に応えたのでした。
さて、南王国ユダの王ヨシャファトとは、いかなる人物だったのでしょう。ヨシャファトに対する聖書の評価は概ね好意的です。「彼は父アサの道をそのまま歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行った」(43節)。彼は主に従う敬虔な王として描写されているのです。それゆえに、ヨシャファトは共に出陣することを約束するに当たり、一つの条件を付けました。「まず主の言葉を求めてください」(5節)。ヨシャファトにとっては、主が何と言われるかが重要だったのです。
そこでアハブは400人の預言者を召集します。「主の言葉を求める」ために集められたのですから、彼らはバアルの預言者ではありません。しかし、この章において最後まで彼らは「主の預言者たち」と呼ばれることはないのです。では何と呼ばれているのか。22節において、「彼(アハブ)のすべての預言者たち」と呼ばれているのです。アハブはその「彼の預言者たち」に尋ねました。「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」。王の問いに対して、彼らは答えます。「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」(6節)。
主の預言者ミカヤ
すると、ヨシャファトは「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」(7節)と問いました。なぜヨシャファトがもう一人を求めたのかは定かではありません。しかし、一つのことははっきりしています。ここでは「アハブの預言者たち」に対してひとりの「主の預言者」が対比されているということです。そして、ただひとりの「主の預言者」として登場するのが本日の朗読にその名前が出て来た預言者ミカヤなのです。
主の預言者ミカヤについて、アハブはこう語っています。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です」(8節)。
さて、ここにおいて「アハブの預言者たち」と「主の預言者」の違いがはっきりと現れてまいります。主の預言者ミカヤは「災いばかり預言する」と言われています。災いを預言するというのは、言い換えるならば「神の裁きを預言する」ということです。神の裁きが語られるのは、そこに人間の罪があるからです。神の言葉は人間の罪を明らかにするのです。そして、それはまた悔い改めを求める言葉でもあるのです。神が望んでおられるのは災いを下すことではなく、人が神に立ち帰ることだからです。
しかし、アハブはもとより悔い改めを求める言葉など欲してはいないのです。アハブにとって、主が何と言われるかなどはどうでもよいのです。主の御言葉によって人生が変えられることも、社会が変えられることも望んではいないのです。彼が欲しているのは自分について幸運を語る言葉であり、そのように耳に心地良い言葉を語ってくれる預言者たちなのです。そして、実際、アハブの望みを満たしてくれる預言者たちはいたのです。だから「彼(アハブ)の預言者たち」と呼ばれているのです。
そのような預言者たちがイスラエルの王とユダの王の前で語ります。「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」(12節)。そのように彼らが口々に預言しているところに、ミカヤが呼ばれます。そこからが本日の第一朗読でした。ミカヤを呼びに行った使いの者は、言いました。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください」(13節)。
ミカヤに求められたのは、他の預言者と同じことを言うことでした。先にも申しましたように、主が何と言われるかなどはどうでもよいのです。しかし、ミカヤにとっては主が何と言われるかが重要なのです。ミカヤは使いの者に言いました。「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」(14節)。ミカヤはアハブの預言者ではなく、主の預言者だからです。
幸運か災いか
主の預言者として、ミカヤはアハブに、彼の見た二つの幻について語りました。一つ目は「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました」(17節)というものです。羊飼いに喩えられているのは王です。アハブ王です。イスラエル人が羊飼いのいない羊のようであるのは、もはや王がそこにいないからです。すなわち、この幻は明らかに出陣した後に王が戦死することを意味しているのです。今日の聖書朗読はここまででした。
しかし、この第一の幻の意味するところは、ミカヤの見た、もう一つの幻によって明らかされるのです。第二の幻の中では、「偽りを言う霊」が主によって世に遣わされます。その「偽りを言う霊」は、預言者たちを通して、アハブを唆して戦わせ、戦死させるために遣わされるのです。神様御自身が「偽りを言う霊」を遣わすというのは、ある意味では難解な話ではありますが、ミカヤが伝えようとしているメッセージは極めて単純です。アハブの預言者たちが語っているのは神の言葉ではないということです。それは「偽りを言う霊」の言葉なのだということです。
ミカヤは第二の幻について、このようにまとめます。「今御覧のとおり、主がこのあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を置かれました。主はあなたに災いを告げておられるのです」(23節)。自分の耳に心地良い言葉ばかりを求めているならば、「偽りを言う霊」が語りかけてくる。――ここに書かれている第二の幻は、私たちもまた心に留めておくべきものでしょう。
注目すべきは23節の最後の言葉です。「主はあなたに災いを告げておられるのです」。実際には、アハブが耳にしているのは幸運を告げる言葉なのです。それが彼の求めていた言葉なのです。しかし、どんなに快い言葉であっても、「偽りを語る霊」の言葉であったらどうでしょう。そこで自分の本当の姿は見えてきません。罪の自覚も生じません。悔い改めに導かれることもありません。それは本当に幸運なことなのでしょうか。いいえ、そうではありません。それこそ「災い」なのだとミカヤは言っているのです。自分の耳に心地良い言葉ばかりを求めているならば、「偽りを言う霊」が語りかけてくる。それは人間にとって「災い」です。
しかし、それはいつの時代にも起こることで、後にパウロが伝道者テモテに次のように勧めています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」。そして、次のように将来を予告して言うのです。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(2テモテ4:2‐4)。
パウロが予告したことは、教会の歴史において繰り返し起こってきたことでした。「自分に都合の良いことを聞こうとして」とは、これは直訳すると「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。当たり前のことですが、心地良い言葉で聞く耳をくすぐってもらったぐらいで人は救われません。私たちは救いにもならないことのために集まっているのではありません。私たちは神の言葉を慕い求めて集まっていることを改めて意識したいと思うのです。
神の言葉は必ずしも聞く人の耳をくすぐりません。神の言葉は必ずしも心地よさを与えない。むしろ時としてそれまであった心地よさを奪います。なぜなら神の言葉は神の光のもとに人間を引き出すからです。光の中にあることは本来喜ばしいことですが、同時に光は人間の罪をも照らし出します。自分自身にすら隠されている罪が光のもとにさらされます。罪が照らし出されるからこそ、悔い改めも起こります。そのようにして、人は神との交わりの中に留まります。そして、そこに救いもあるのです。
(祈り)