列王記上17:17-24
干ばつの予告
今日は17章から始まる「エリヤ物語」の一部をお読みしました。その背景となっているのは紀元前9世紀、イスラエルの王アハブの時代です。アハブについては次のように書かれています。「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」(16:30)。主に背いた王アハブ。いや、主に背いたのは王だけではありませんでした。イスラエルの多くの人々のまた主に背を向けていたのです。そのような、いわばイスラエルの霊的暗黒時代に、彗星のごとく現れたのが預言者エリヤという人物でした。17章は次のような言葉から始まります。「ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう』」(1節)。
エリヤがアハブ王の前に立つまでのことは何一つ書かれていません。しかし、ある程度想像することはできます。彼は主に背を向けたイスラエルのあり様を憂い、イスラエルが主に立ち帰ることを祈り求めていたのでしょう。「わたしの仕えているイスラエルの神」とありますが、これは「わたしがその御前に立っているイスラエルの神」というのが直訳です。エリヤは常に生ける神の御前に立っていたのです。イスラエルの救いを求めて。そして、その祈りの答えは、何年も続く干ばつだったのです。「数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」。エリヤはそれを良しとしたのです。それゆえに、その言葉をもってアハブの前に立ったのです。
聖書はただ単に、人々が問題なく生活し、豊かで幸福であればそれで良いとは言いません。聖書が最も重く見ているのは神と人との関係なのです。逆に言うならば、たとえ災いと見えることがあったとしても、それ自体が人間にとって本質的な不幸なことではないのです。神に背いていること自体が本当の意味での不幸なのです。ですから、主に背いている国が主に立ち帰るためならば、主の答えがたとえ干ばつであったとしてもそれを良しとする。そんな人物が聖書にはこうして登場してくるのです。
ケリト川のほとりへ
そのようにエリヤがアハブ王の前に立ったところからこの17章は始まります。普通に考えるならば、まさに戦いの火ぶたは切って落とされ、ここからエリヤの本格的な活動が始まるように思います。ところが不思議なことにそうなっていないのです。主はエリヤにこう命じたのでした。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」(4節)。主はケリトの川のほとりにエリヤを隠してしまわれた。いよいよ戦いが開始したと思われた時に、主はエリヤを表舞台から引っ込めてしまわれたのです。なぜでしょう。隠れたところにおいて、エリヤ自身がまず準備されねばなかったからです。
まずエリヤ自身が準備されるため、彼が完全に主に寄り頼まざるを得ないところに、主に養っていただかなければ生き得ないところに追いやられたのでした。主はエリヤを養うために、よりによって烏を用いられました。烏は律法によれば汚れた鳥とされています。その汚れた鳥に養われるということは、屈辱以外の何ものでもありません。しかし、主は時として自尊心を打ち砕くような方法を用いられます。まさに「そこで」、エリヤは主の言葉が真実であることを経験することになるのです。
「エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった」(5節)と書かれています。彼はそこにとどまり、主の言葉を待ちました。しかし、とどまって待つということは、時として最も難しいことでもあります。待たねばならない時、人は信仰が揺さぶられます。雨は降りません。エリヤはそこにとどまって、毎日水位の下がっていく川を目にしなくてはなりませんでした。事態は悪くなっていきます。しかし、エリヤは涸れつつある川を見ながら、「そこにとどまった」のです。そして、まさにその「川も涸れてしまった」ときに、「また主の言葉がエリヤに臨んだ」と書かれているのです。
シドンのやもめによって養われる
さて、エリヤに臨んだ主の言葉はこうでした。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」(9節)。この主の言葉はエリヤにとってさらなる試練を意味しました。「やもめ」は聖書において常に弱い立場にある者の代表です。干ばつによる飢饉が全地を襲っている時に、いかなる「やもめ」であっても苦境に立たされていることは想像できます。そのような人を、「身を粉にして助けなさい」と命じられたならまだ従いやすいと思います。しかし、主はそうは言われない。そのような苦境にある者に養われることを命じたのです。
エリヤはサレプタに着くと、町の入り口で一人のやもめに出会います。これが主の語られた人であることをエリヤは悟りました。エリヤは言います。「器に少々水を持ってきて、わたしに飲ませてください」。そして、さらに「パンも一切れ、手に持ってきてください」と願います。すると彼女はこう答えました。「わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(12節)。
この言葉はエリヤの胸に深く突き刺さったと思います。エリヤの信仰は大きく揺さぶられたに違いありません。考えてみてください。先にも申しましたように、エリヤにとって、この干ばつは神の答えだったのです。これはイスラエルが神に立ち帰るためであると信じたのです。それゆえに、新約聖書では、「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした」(ヤコブ5:17)という書き方までされているのです。
しかし、その干ばつによって、実際に死に瀕しているやもめに出会うのです。信仰のゆえに自らが苦しみに遭うことは確かに信仰の試練であると言えるでしょう。しかし、自分の信仰のゆえに他者が苦しむ時、それはより大きな試練となるに違いありません。しかし、それでもなおエリヤはなおも主を信じるのです。主はこのやもめに命じて自分を養わせると言われた。それゆえに、エリヤは自分が主に信頼するだけでなく、このやもめにも信じることを求めるのです。エリヤは言います。「恐れてはならない。…まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持ってきなさい」。
自分たちの食べるものすらわずかしかないのに、その彼らからパンを取り上げることはあまりにも理不尽ではないか。そう思わずにはいられないところですが、エリヤは主が養ってくださることを信じ、主の御言葉を告げるのです。「主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。するとやもめは行って、エリヤの言葉どおりにしました。主の御言葉を信じたのです。そして、主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、主は彼らを養われたのでした。
主の言葉は真実です
ところが話はここで終わりません。ここからが今日の朗読箇所に当たります。思わぬ不幸がその家を襲いました。彼女の息子が病気にかかり、死んでしまったのです。彼女はエリヤを責めて言いました。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」(18節)。彼女は異教の地、シドンの人です。その彼女がエリヤを通して主なる神を知ったとき、その神の御前において、確かに彼女には思い起こされる罪があったのでしょう。子供が死んでしまった時、彼女はそれを神の裁きであると受け取ったのです。エリヤが来たためにもたらされた神の裁きである、と。
エリヤは災いをもたらし罪を思い起こさせる者として詰られました。しかし、それこそまさに、エリヤがイスラエルとの関係において立たされていたところだったのです。自分が語った主の言葉のとおり、干ばつが続いている。人々は苦しんでいるのです。まさにエリヤはイスラエルに対して、災いをもたらし罪を思い起こさせる者となっているのです。
しかし、そこでもなおエリヤは信仰にとどまります。エリヤは彼女の手から息子を受け取り、階上の部屋に行って寝台に寝かせました。彼は子供の上に三度身を重ねて主に願います。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と。すると、主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになったと書かれています。しかし、ここで重要なことは奇跡そのものではありません。聖書は、このやもめの言葉を伝えています。彼女はこう言ったのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と。
彼女の言葉はエリヤにとっても大きな意味を持っていたに違いありません。この言葉こそエリヤにとって、再びアハブの前に立つための最終的な準備だったのです。彼女の子供と同じように、イスラエルの大地は雨を受けることなく死んだような状態になっています。そこにおいて人々は苦しんでいます。まさに自分の罪を思い起こさせられる出来事がそこで起こっているのです。しかし、それが最後の姿ではありません。そのことを経てなお先に起こるべきことがあるのです。これらすべては彼女と同じように、この言葉が人々の口に宿るためなのです。「主の言葉は真実です」と。
こうしてエリヤは再びアハブの前に立つことになります。神によって準備された人として。この教会も、また私たちの個人の人生においても、信仰が揺さぶられるような過程を通ることがあるのでしょう。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにおいて、また教会も自由に集まることができない現実において、今まさに信仰が揺さぶられるような過程を通らされている人も少なくないのだろうと思います。しかし、その時こそまさに、主の御言葉は真実であることを知る時なのです。それはまた、私たちを通して誰かが主の真実を知り、「主の言葉は真実です」と言い表すようになるために他ならないのです。
(祈り)