サムエル記下14:21~33
私たちはここまでダビデ王家に起こった一連の出来事を読んでまいりました。長男アムノンの犯した罪。その罪に対する報復として三男アブサロムがアムノンを殺害し、ゲシュルに逃亡したこと。ダビデもまたアブサロムを公に追放することとなりました。
さて、これまで読んできたことを正しく理解するために、今一度11章と12章に書かれていたことを振り返っておきたいと思います。バト・シェバ事件の話です。ダビデがバト・シェバと関係し、バト・シェバが身籠もった時、ダビデはなんとかしてその罪を隠蔽しようとしました。そして、ついにその夫ウリヤを殺害するに至ります。これで全ては闇に葬られたはずでした。しかし、神はダビデにナタンを遣わされます。ナタンはたとえ話を通してダビデが犯した罪を明らかにされます。神はダビデの罪を神の光の中に引き出されたのです。ナタンは神の言葉を語り、ダビデの行いが他ならぬ《主に対する罪》であることを明らかにされました。
主はナタンを通してダビデに言われました。「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか」(12:9)。それに対して、ダビデは自分の犯した罪が主に対する罪であることを認めて言います。「わたしは主に罪を犯した」(12:13)。すると即座にナタンはダビデに対して宣言します。「その主があなたの罪を取り除かれる」(同)と。
その後のダビデ家に起こった悲劇的な出来事を思います時に、罪が主に対する罪として裁かれ、主の御前において取り扱われるということは、いかに大事なことかと思います。主の御前において悔い改めがなされ、そして主が赦されるのでなければ、罪の問題は解決しないからです。しかし、まことに悲しむべきことに、アムノンの罪も、アブサロムの罪も、ついに最後まで主の御前において取り扱われることはありませんでした。
先週、私たちは、知恵のある女とダビデとのやりとりを読みました。その知恵ある女を送ったのは神ではなく、ヨアブでした。ダビデはこの女の言葉の背後にヨアブがいることを見抜きます。女もまた、「御家臣ヨアブが事態を変えるためにこのようなことをしたのです」(14:20)と、事の真相を明らかにしました。恐らくこの女が王に訴え出ていた時、ヨアブも何食わぬ顔をしてそこに陪席していたのでしょう。
ダビデはヨアブに向き直って言います。「よかろう、そうしよう。あの若者、アブサロムを連れ戻すがよい」(14:21)。こうして追放が解かれます。しかし、この判決はどこから来たのでしょう。どうしてダビデはアブサロムを連れ戻すことに決めたのでしょう。明らかに追放の解除という判決は、神の赦しに基づくものではありませんでした。いみじくも、その直後にヨアブが言っているとおりです。「王よ、今日僕は、主君、王の御厚意にあずかっていると悟りました。僕の言葉を実行してくださるからです」(22節)。
このように、ダビデが追放を解いたのは神の言葉を実行したのではなくて、あくまでもヨアブの言葉の実行に過ぎませんでした。ここで起こっていることは12章で起こったこととは異なることを聖書ははっきりと書いています。しかし、それはある意味で当然の成り行きであったとも言えます。なぜなら、もともとダビデはアブサロムの罪を神の御前に明らかにした上で追放を宣言したのではなかったからです。神とは関係なく追放し、神とは関係なく追放を解除したのです。
さて、こうしてダビデによる追放解除の言葉を手に入れたヨアブは、立ってゲシュルへと向かい、アブサロムをエルサレムへ連れ帰ります。ところがダビデ王は一つの条件を付けていました。「自分の家に向かわせよ。わたしの前に出てはならない」(24節)。つまり、ダビデはエルサレムへの帰還は認めたのですが、王宮への出入りは認めなかったのです。王位継承権を持った王子としては扱わなかったということです。ダビデはアブサロムを連れ戻すことを許可したのですが、完全に追放を解いたわけではない、とも言えます。
なぜダビデはこのようなことをしたのでしょう。それはエルサレムの人々の手前、またアムノンの家の手前、完全に赦免することができなかったのかもしれません。あるいは、アムノンを殺したアブサロムに対する怒りが解けていなかったのかもしれません。いずれにせよ、このこともまた、法的な処置ではなく、神の律法のもとでの処罰でもありませんでした。少なくとも、アブサロムは、この処罰が何を根拠として何故になされたものなのか、全く理解してはいませんでした。それは彼にとっても、ダビデ自身にとっても、極めて不幸な展開をもたらす原因となるのです。
アブサロムは王宮への出入りを禁じられたまま、二年間を過ごします。アブサロムが宮廷に戻されることがそれほど容易なことではないことを悟ったヨアブは、これ以上アブサロムには関わろうとはしませんでした。ダビデ王とアブサロムとの関係の修復が困難であるならば、これ以上アブサロムに関わることは、ヨアブにとっても益とはならないからです。
実は、後にダビデ王の死期が近づいた時に、ヨアブが四男のアドニヤの王位継承を支持するという話が出て来ます(列王上1:7)。しかし、考えてみるとこの二年間の間に既にヨアブはアブサロムに見切りをつけてアドニヤの支持を考えていたのかもしれません。見切りをつけていたことは、後にアブサロムにとどめを刺すヨアブの行動にも、暗い形で現れることになります。いずれにせよ、ヨアブにとって大事なのは将来の自分の権力が確保されることなのであって、アブサロムの罪が赦されることや、彼とダビデとの関係が修復されることそのものは、もともとどうでも良いことだったのです。
一方、アブサロムはそのままの状態に留まっているわけにはいきません。先週申し上げたとおり、アムノンを殺したのは、単に妹を汚された兄の私怨によるのではなかったからです。それは王位継承第一位の王子として、やがてはダビデの王座を嗣ぐためだったのです。ですから、なんとか事の打開を図るため、アブサロムはヨアブを王のもとへの使者に頼もうとして人をやります。しかし、ヨアブは応じません。そこでついに、アブサロムはヨアブの地所の大麦に放火するという暴挙に出ます。
このアブサロムの行動と、その後に彼が語った言葉は、彼が決して神による罪の赦しを求めていたのでも、神の御前における真実な和解を求めていたのでもないことを示しています。彼は王家への復帰を求めていただけであって、本質的に赦しを欲してなどいないのです。彼は神の御前において自分の罪を認めてはいないからです。「王に会いたい。わたしに罪があるなら、死刑にするがよい」(14:32)。彼は自分が死に価する罪人だとは思っていないのです。
このアブサロムに対してダビデはどう対処したのでしょうか。ヨアブは王のもとに行って報告しました。王はアブサロムを呼び寄せます。アブサロムは王の前に出てひれ伏します。王はアブサロムに口づけします。これは王の赦しのしるしであり、王とアブサロムの和解のしるしでもあります。しかし、どうしてダビデはアブサロムを王家に復帰させたのでしょうか。ここにおいて再び、彼は根拠のない赦しを与えます。その赦しは成り行きによる赦しであり、神の赦しを信じたからではありません。それゆえに和解も見せかけのものでしかありません。これらすべては神の御前における事柄ではないのです。
このダビデの姿は、私たちの日常のあり方を考えさせるものです。私たちも往々にして、罪の問題を神の御前において問いません。子供に対しても、往々にして親が言うことは、「そんなことをしたら恥ずかしいよ」「そんなことをしたら他の人の迷惑になるよ」ということだけです。そして、処罰を加えるのも、神の御前において罪が裁かれるのではなく、自分の怒りにまかせて、あるいは世間体を取り繕うための罰を加えます。親も子も、神の前における罪であるか否かを考えません。それゆえに、赦すときにも、何の根拠もなく赦します。たいていは成り行きです。それゆえに、赦されたとしても、自分の罪が赦されたことの意味を考えることはありません。
アブサロムはその美しさのゆえに、王たるに相応しい人物と見なされていたようです。後に見るように、その実力も備えていたのでしょう。しかし、悔い改めを知らない者の力も美しさも、その者を王とするのではなくて、むしろ滅びへと導くものでしかありませんでした。